巻9 永禄11年正月~永禄11年12月 信長上洛
永禄11年(1568)
正月大
11日 家康が右京太夫に任じられた。
2月大
16日 今川上総介氏眞は遊び人で、蹴鞠や踊りを好んで昼夜宴会を催し財産を食いつぶしてしまった。彼の側近の三浦右衛門義鎮はそれを償うために、譜代にさえ言いがかりをつけて所領を取り上げ、民への税金を倍増させ、臨時の税も課して滞納者には、箐巻(*?)、水牢、打擲(*殴るける)などを科して蹂躙を続けた。
一方、甲陽の武田は今川の叔姪の親だから、今川が困ったときには助けるべき立場にあるが、氏眞の為政が地に落ちて家来に嫌われ民にも見捨てられていることに乗じて、近年しきりに氏眞に働きかけ、跡部大炊助信元を駿府へ派遣して「徳川家の勢いは既に参州を呑み込んでいる。遠州もまた危ない、東三河を自分にくれれば、信州から兵を出して今川家のために直ちに徳川家を攻撃して危機を救う」と説得させた。
氏眞は愚鈍とはいえ信玄の邪心を察して、「これは氏眞の救済を名目に、駿河や遠州を侵略しようとする陰謀に違いない。以前この城で信玄と宴会をしたとき、彼は酒に酔った振りをして京極黄門定家の書いた『伊勢物語』を甲陽へ持ち逃げした。これは西三条實隆から祖父氏親に贈られた貴重な書物である。このことがあってから、父義元はいつも信玄の下心を怖れ、信玄が密かに今川を分裂させる輩を見つけては自分の味方につけようとしていることを、自分はとっくに見破っている。お前は帰すから、今後は武田とは親戚の縁を切ることを、帰って信玄に伝えるように」といったという。
〇『甲陽軍鑑』によれば、信玄は、水野彌平太夫をいいくるめて徳川家に働きかけ、梶永彦助に今川の家来を叛かせたので、氏眞はこれを漏れ聞いて、梶永を誅殺したという。しかし、彌平太夫忠頼は、それより9年前の永禄3年6月に刈屋で戦死したことが『樽谷の伝』に書かれているので、『甲陽軍鑑』の説は信じ難い。彼が討ち死にしたとき、その子彌吉は8歳で、後の三四郎康忠だという(江戸の町年寄り、樽屋藤左衛門の先祖である)。
〇故今川義元は天文7年(1538)に伊豆熱海の温泉で入湯したが、その時、江州(近江)の武将、小倉参河も来ていた。義元は彼に関西の軍事状況を尋ねようと、「駿河に来て家来にならないか」と誘った。参河は誘いを断って、「自分は齢を取っているので息子の與助を義元の家来にする」と約束して江州へ帰った。
翌年、與助は駿府へ来て義元に仕えた。天文11年の小豆坂の戦いでは、尾張の豪士の槍三位(*?)を組獲ったので、義元は大いに喜んだ。その後も数度も戦功があったので、義元は褒めたついでに彼に美濃や和泉の武将をスカウトして連れてくるように命じた。それで根野備中弘就、同彌次右衛門、青木筑後一重、同加賀右衛門重直、小原肥前兄弟、坂井某などが、早速駿府へ来て義元の家来となった。義元が戦死し、小倉與助が死んでからは、その子の内臓助資久と、小原肥前鎮實の子の三浦右衛門義鎮が氏眞に仕えた。
小倉(*内臓助資久)が88歳のとき、越後の輝虎(*上杉謙信)が相模の小田原を襲ったが、小倉は援兵として小田原へ向かい、氏康の命令で武陽川越の城を守って、非常に武功があり、氏康から感謝状を贈られた。その後、彼は駿州に帰り、氏眞は、彼の当時の功績を評価して18人衆の隊長とした。
三浦右衛門は、去年氏眞の命令で、飯尾が亡くなった引間の城を攻めて城兵を味方につけた。氏眞は男色の相手の三浦を寵愛したあまり、彼は手柄を過大評価してもらって隊長になったり、父肥前が去年まで三河の郡代として、吉田の城に住んで氏眞に大いに尽くしたりした関係で、三浦の勢力は大きくなって、老臣たちを越えてしまった。というのも義元が桶狭間で戦死したとき、家来たちは駿州へ逃げてしまい、老臣たちの面目が立たなくなってしまっていたので、三浦に何もいえなくなっていたのである。
信玄は話のうまい使者を送って、三浦に家来になるように誘ったが、三浦が派手で放逸なのを疎んで、氏眞を恨んでいた20人ほどの家来の方が武田方につくことになった。このようなことが起きたのは、義を失い利に溺れる戦乱の世相のためである。
〇信玄は兼ねてから忍びを使って家康の元老、酒井左衛門尉忠次に、「氏眞が滅びるのは時間の問題なので、徳川が遠州を攻めて今川を滅ぼせば、大井川を境として徳川は駿河を領土とせよ」と伝えていた。家康は了解して起請文(*約束を保障する文)を信玄に送った。信玄は喜んで、家康に起請文を受け取ったことを書状で告げた。
「書簡」
〇家康は酒井左衛門尉を遠州に派遣し、周智郡久能の久野二郎左衛門宗能を味方に招くと、彼はすぐに家来になった。
今月中に、豊田郡二股の城主、今川の一族二股左衛門尉、高数の浅原主殿をはじめ、西塚の松下如兵衛之綱、同源太郎清景、木寺須田らが家康に降伏した。しかし、浜名郡宇都(*津)山の城は、遠州と三河の境目にあり、東西北の三方が広い湖(*浜名湖)で城の水濠とつながっている。だからいつも城には大きな船を配備して出入りしていた。また、城の南面が高い絶壁となっていて、この城は非常に堅固である。
大永6、7年ごろ、今川家より管理を任されていた奉行の長池六郎左衛門親能が城代となって、その後小笠原備前守親高、朝比奈紀伊守政吉、同紀伊守泰長などが次々とこの城を守ってきた。永禄5年11月末日、泰長が死去した。(法諱 深雪全功) 翌年9月21日、彼の次男孫六郎直次は乱暴者で、兄の孫太郎を殺してこの城を乗っ取った。同10年正月2日には、小笠原肥前鎮實は孫六郎を討ち取って、氏眞の腹心としてこの城を守った。家康は以前から忍びを送ってこの城の地の利を吟味し、城兵の数や兵糧などを探らせていたという。
3月小
〇家康は遠州を侵略するために岡崎を出撃した。磐田郡見附へ着き、いろいろな方面へ兵を進めた。(遠州は14の郡に分かれ、後世での穀高は26万8千8百石である)
6日 家康は見附より出撃し、尾藤彦四郎と竹田某の氏族、山村修理の立て籠もる浜名郡堀川の城を襲撃するために、松平勘四郎信一と榊原小平太康政に先陣を命じた。そこで康政は今夜家来の中島右衛門作と伊奈源左衛門に、「自分は去年与力の役を家康にもらって1隊の隊長になった。また春には名前の1字をもらった。このように家康の恩は海よりも深く山よりの高い。明日堀川の塞へは一番乗りをして軍功を上げて恩に報いたい。皆は捺物を付けて、腰差、袖印のいでたちで向え。伊藤彌惣は兵たちの指揮を執れ。康政と源左衛門、右衛門作は堀へ登ってそのまま城内へ攻め込め」と命令した。それで夜中にその準備を終えた。
7日 早朝、榊原康政(後の式部大輔)は紺の生地に無の字の捺物を着て、篠切という鎌槍を構えて最初に突撃し、その槍で対決した。伊奈と中島も一緒に戦った。伊藤彌惣は旄(*ぼう:ヤクの毛)の指揮棒で合図して、兵は城に突入した。城兵も堀の裏側から槍で応戦した。
康政は2箇所の傷を負った。伊奈源左衛門と中島右衛門作は、左右から康政を肩に架けながら城内へ進んだ。榊原勢は奮戦して城兵を切り殺した。御家人の小林権太夫重直(24歳、後の平太夫)も榊原勢と同様に魁となった。その他、松平勘四郎信一、同三郎次郎親俊、大久保新十郎忠隣(26歳、後の相模守)は城壁に取り付いて、康政に負けないようにと突入し、遂に城は陥落した。家康は見附へ兵を収めた。
〇『榊原家伝』によれば、家康は康政の陣地を訪れ、股の2箇所の槍傷の具合を尋ねたが、ひどい傷だったために「何か言い残すことはないか」と尋ねた。康政は、「伊奈と中島は今回の戦いで非常に活躍したので、褒美をやってほしい」と頼んだ。家康は直ぐに2人を呼んで、三河から代官も一緒に来ていたので、見附の責任者、鈴木総右衛門に、この2人への褒美として領地を与える算段をさせ、彼らはそれをもらった。
康政の傷は間もなく治り、彼は徳川家の重要な家来となった。中島右衛門作は元亀2年(1571)、近江、姉川の戦いで戦死した。
〇いろいろな記録には、今回の堀川の戦いで、平井甚五郎、永見新右衛門、大久保勘十郎、小林平太夫が戦死したとあるが、大間違いである。彼らが戦死したのは、翌年3月27日にもう一度家康が堀川を攻めたときのことである。特に『永見家伝』には、新右衛門為重の命日は3月27日で、法諱は芳月だと記されている。
〇今月、家康は宇都山の城を攻撃した。見附の陣地を整備して、松平三郎次郎親俊と大久氏を配した。親俊は家康の出陣に際して家臣の天野と鈴木ら200人を見附に置き、20騎程を魁として家康軍に参加させた。城主の小原肥前鎮實は城を守りきれず、爆薬を廓に仕掛けて船で駿州花澤の城へ逃亡した。味方の魁が城に入ると爆薬が破裂したが、避けたので1人も命を落すことはなかった。
6月大
〇信玄は去年の返礼として織田信長へ、蝋燭3千本、漆千樽、熊の皮千枚、野州宇都宮産の鬼駱という駿馬と良馬11匹を贈り、息子の信忠へは刀(松倉郷)、脇差(左の安吉)、紅花千斤、綿千把、奥州会津産の驪(*れい、黒馬)と駿馬10匹を贈った。その時、信州飯田の城代、秋山伯耆晴近が使者になったという。
9月大
7日 織田信長は三好を征伐するために、美濃の岐阜の城を出撃した。
永禄8年に将軍義輝が暗殺されてから、弟の義昭が越前に行って朝倉義景を頼ってリベンジをしようとしたが、義景は出兵したものの弱くて三好を下すことができないまま時間だけが過ぎていた。ところが義景は、尾張に織田上総介という領土はさほど大きくはないが武力も智謀も卓越した者がいて、むやみに国や郡を貪ることもなく義を唱え幕府を再興して、自分は天下をとろうとしている者がいることを知って、越後の細川兵部大輔藤孝と上野中務大輔秀政を介して、信長に協力を依頼した。信長は直ぐに了解したので、この7月27日に義昭は美濃の西ノ庄の立政寺を訪れた。
信長は自分の配下の軍勢を集めたが、家康も藤井の松平勘四郎信一の下に、三宅宗右衛門康貞を大将として2千人の兵を選んで信長の援兵とした。信長は今日美濃、尾張と伊勢のいくつかの郡の兵を率いて、岐阜を出撃した。
11日 信長軍は近江の愛智川まで進軍し、敵の佐々木六角左京太夫義賢入道承禎の領地を焼き払った。
12日 承禎の拠点である和田山の城を守るために、吉田出雲守重高、同新助、建部源八郎秀明が立てこもっている箕作の城を、信長軍は包囲して攻撃した。しかし、佐々木家も精鋭を選んで備えているので、信長の先鋒、佐久間、丹羽、木下らも攻め入るのが困難だった。
一方、家康軍団は山下の南側の尾崎から攻め登って門まで迫ったが、城中には吉田流の弓の名手が鏃をそろえて防戦したので、寄せ手は多数が射殺された。その時、建部源八郎率いる城兵が城外へ出撃し、寄せ手を山ノ下へ押し戻した。松平勘四郎信一は大声を挙げながら、崩れて逃げ降りる味方に檄を飛ばして1人で城へ登ったので、三河勢は「信一を見殺しにするな」と呼び合って先を争って登った。ところが最初に登った内の20人ほどは直ぐに撃たれて命を失った。それでも徳川軍は怯まず槍をそろえて立ち向かい、敵の17、18人を捕らえて城門まで追い詰め、結局城兵200人ほどを切り殺し、味方の旗を城内に投げ入れ、箕作の一番乗りは勘四郎だと叫ぶ声が響き渡った。
信長の軍勢もこれに負けじと城に乗り込もうとしていたとき、城兵は笠を出して(*降参の合図)、「一番乗りはどなたか」と問うた。「徳川隊では松平勘四郎、佐久間隊では佐久間源六安次と原田與助、丹羽の隊では林志島、木下の部下、竹中半兵衛重治、木村隼人重茲だ」というと、「今まで防戦に努めたが寄せ手には勝てなかった、早速城を出るので命は助けてほしい」と頼んだ。
信長は、佐久間の陣で戦況を見ていたが、直ぐに城兵の望みを受け入れ、攻め手は城を受け取って中にいた男女をすべて出し、勝鬨を上げた。
こうしてこの要城が落ちたので、承禎父子の居城である観音寺、和田山の城代、田中治郎山城守長俊をはじめ、佐々木家の城18箇所はその日の内に全て陥落した。(承禎は石部の城に逃げた)
13日 信長は観音寺の城に入り、松平信一を呼んで彼の功績をたたえ、興奮のあまり「お前の肝には毛が生えている」といって、着ていた桐の紋付の皮の胴着を信一に投げ与えた。また、三宅康貞など敵の首を取った者たちに褒美を与えたそうである。
信一の家は代々葵の紋を使っていたが、家康に遠慮して剣酸醤(*かがち:ほうずき)草の紋を代わりに使っていたが、これ以降は桐の紋を使うことにした。
近江の日野の城主、蒲生氏が武略に優れているといわれていたので、信長は知り合いの神戸蔵人盛友を遣わして味方になるように誘った。下野入道快翰は歳をとっていると断り、嫡男右衛門太夫賢秀とその子鶴千代氏郷(13歳)を信長の家来にした。稲葉伊予守通朝は、氏郷の容貌を見て「この子は英雄になるしかない」と誉めた。信長は喜んで氏郷を婿とした。(後、飛騨守になり、三議三位にまでなった)
23日 義昭は近江の森山に陣を構えた。
25日 義昭と信長は湖上(*琵琶湖)を渡って京都へ行き、信長は円城寺の極楽院に滞在したが、彼の大軍は、瀬田、大津、松本あたりを埋め尽くして陣を構えた。京都にいた三好党など、篠原、松山などはその様子に恐怖して皆京都から逃げ出した。
28日 義昭は京都へ入り清水寺に泊まった。信長は東福寺に駐屯して、菅谷九右衛門長頼に命じて、都での侍の乱暴狼藉を禁じさせた。ところが、松平勘四郎信一の従者と、織田上野介信兼の下男が、古烏帽子を奪い合って喧嘩となり、美濃と尾張の兵が多勢が集まってきて、信一の宿舎を取り囲み、信一を討ち取ろうとした。そこで信一の家来が鉄砲を撃って防戦しようとしたが、信一はそれを抑えて、「何事か」と尋ねた。
信長はこの事件を聞いて怒り、使いを走らせ尾張と美濃の狼藉を働いた輩を叱った。そして、信一を慇懃になだめて、持ってきた鉄砲1挺を贈った。信一は暇をもらって三河へ帰った。三河では彼を藤井の鬼武者と呼んだ。(後の伊豆守である)
〇この日、信長の先鋒は、山崎の青龍寺の城を攻めた。(城主、岩成主税助隆は降参した)
9日 信長は摂津へ出陣し、伊丹親興などが全て信長に服従した。
10月小
朔日 破竹の勢いの信長に、細川聡明允勝之(晴元の嫡子)と三好北斎入道は、摂津の芥川の城を棄てて四国へ逃げた。(勝之は後の左京太夫、その子は讃岐守元勝)
2日 摂津の小清水、布引の龍山寺や、山城、河内、和泉、摂津の敵城は全て落城し、これによって幕府による統治が再開され。公方は家来に論功行賞による領地の配分を行った。
21日 義昭は天皇から将軍の指名を受け、信長は従5位下弾正忠に任じられた。
28日 信長は岐阜へ帰還した。
11月大
〇遠州乾の天野景貫が密かに人質を武田信玄へ送った。
〇信長は5年前から浅井備前守長政と約束を守って、妹を長政に嫁がせた。
11月小
6日 武田信玄は、穴山梅雪を密使として酒井左衛門尉忠次の下へ行かせ、「時は熟した、今月駿府を攻めよう」と連絡した。
家康は、遠州の浜名比佐は帰路に当たるため、その辺りの郷士の動向を探るために忠次を遠州へ派遣した。すると、浜名郡本坂の麓に城を構えている後藤覚蔵、本坂の巽、日比澤の城主、後藤佐渡、都筑の城主、浜名肥前頼廣、気賀の城主、新田美作(後の入道了栄)らは全て信玄方だった。そして本坂の東側、気賀の郷民を募って蜂起させ、酒井が責めてくるのを待ち受けさせ、引佐峠では鉄砲を撃って酒井隊の進軍を阻んだ。忠次はすぐ引き返して岡崎に帰り、この事情を家康に報告した。
家康は信長と相談した。信長は、「直ぐに遠州を襲撃せよ、家康の軍勢が不足なら援軍を派遣しよう」と述べた。
家康は、三河野田の菅沼新八郎定盈(*みち)を呼んで、彼の領地が参遠の境にあるので「遠州を攻撃するときには協力せよ」と命じた。彼は自分の城に帰って十分に審議し、家来の小山源三郎を後藤覚蔵のもとに行かせて利害を説明した。しかし、覚蔵は同意しなかった。
引佐郡井伊谷の近藤、鈴木、小野、但馬、中野五郎太夫など7人の内、都田の菅沼次郎右衛門忠久(始めは忠重)は、長篠の菅沼新九郎元成の親戚で、父の次郎右衛門元景はちょうど長篠から井伊の家来となっていた定盈一族と好(*よしみ)があったので、定盈は自分の家来の今泉四郎兵衛延伝を忠久のもとに行かせ、家康の命令を伝えて遠州を攻める計画を持ちかけた、忠久はこれに応じた。
そこで、忠久は井伊谷7人の長である近藤石見信用(後の康用)、鈴木三郎太夫重路をうまく味方につけ、今泉をすぐに岡崎に行かせて自分たちが協力すれば恩賞が得られるという証文がほしいと家康に伝えさせた。
11日 家康は井伊谷の3人が味方になったので、8千の軍勢を率いて岡崎を出撃し、吉田城へ入った。遠州の引佐郡奥山の方廣寺の僧徒、池田中泉、見附の郷士は人質を差し出して、食事の用意をして出迎えた。
2日間ここに滞在して軍勢を整え、家康は側近を集めて遠州の地図で山や川の険しさ、順路や抜け道などを詳しく検討して戦いの準備を整えた。
魁は、酒井左衛門尉忠次、本多豊後守廣孝、石川日向守家成、松平彌右衛門(二代目)、植村出羽守家政、小栗仁右衛門忠吉らの6隊、3千余人であった。
二陣は、酒井雅楽助正親、松平玄蕃清宗、加藤播磨景元、平岩七之助親吉、松平又七郎家信、松平左近太夫眞乗、二連木の戸田、牛窪の牧野、野田の菅沼ら合わせて3千だった。
旗本は、石川伯耆守数正、本多肥後守忠眞、同平八郎忠勝、天野三郎兵衛康景、高力與左衛門清長ら3千であった。
軍監は本多作左衛門重次、渡邊半蔵守綱、榊原隼之助忠政、内藤三左衛門信成だったという。また、(*一般人に対する乱暴狼藉、山林での竹や木の伐採、伝馬の押買と追受)の禁止令を布告した。
「禁制」
12日 家康は菅沼定盈の功績に対して、遠州の磐田郡河合、高部と新しく1500石を新たに与える証文を与えた。
「保証書」
〇菅沼次郎右衛門忠久、近藤石見信用、鈴木三郎太夫重路にも領地を数箇所与え、証文を発行した。
「保証書」
13日 菅沼定盈は、今泉、延伝、井伊谷の3人へ証文を贈った。
「証文」
〇この証文が定盈と今泉の連署となっているのは、定盈の得た領地を直ぐにこの3人へ分けるように命じられていたためである。黄柳村、多里村、竹輪村は三河の八名郡郡、山野吉田の郷内で、慶長8年(1603)の検地では総石高981石あまりの場所である。これを最初は3人が輪番で預かっていたが、後には鈴木三郎太夫の子の石見が持っていたという。鈴木三郎太夫の領地は設楽郡宇利村、黒田村、小波多村、下宇利村、百も村、吉川村、津気村、以上7郷221貫文という。
〇今月、武田信玄は駿州の由井口、八幡左長坂より侵攻して空総に駐屯した。
これに対抗して今川氏眞は1万5千余りの兵で、府中より清見寺に進軍し、庵原安房守を魁として5千余りを薩陲山へ行かせた。軍監は、岡部忠兵衛直規、小倉内蔵助資久、一宮是宗入道随波斎だった。また、今川家の功臣8人衆を1分隊として7千余りを八幡平に配し、信玄が興津河原を経て横山を越えるところを攻撃させて、途中、薩陲の勢力が山の上から降りて敵の先鋒の陣を破って敗残兵をすべて殲滅させ、次に氏眞の旗本軍3千余りが清見寺から出撃する計画を立てていた。しかし、信玄は空総の左側の山へ人夫2千人を使って道を設け、各隊は馬を連れ歩いて八幡平へ進軍した。
また、今川方の武将達はかねがね信玄に通じていたので、最初に瀬名陸奥、さらに18将の朝比奈右衛門太夫政貞、葛山備中など600から700騎は戦闘をせずに駿府へ引き返すと、全軍が退却し、庵原の一隊だけが薩陲山に残されてしまったが、どうしようもなく、清見寺の氏眞の本陣まで退却した。氏眞軍の士気も落ち、数も70から80騎に過ぎずようやく駿府の城へ帰ると、朝比奈政貞(始めは氏秀)は城中の長圍爐裏(*いろり)で帯を解いて焚き火に背中を暖めていた。岡部眞幸と小倉資久はその様子を非常に怪しんで氏眞に告げ、日野根弘就が「政貞は信玄に内通していることが分かったので殺すことに決めた。弘就と小倉資久が命を取る」と目を開き太刀を構えて進み出たが、政貞は泰然として動かなかった。2人の疑心が失せて殺すことができず氏眞に報告した。
朝比奈は直ぐに駿府の城内から脱出して逃げようとしたが、自分の子小次郎が以前から人質として城内にいるので、弟の金七郎を途中で引き返させて兄を連れ出さそうとした。しかし2人が逃げ出そうとしているところを、門番に追いつかれ切り捨てられた。
武田の先陣、山縣、馬場、小山田、小幡、真田、内藤などは、江尻の駅を経て上の原まで進軍し、脇備は水谷山を左にして臨済宗の門前まで放火したが、今川の家臣は大方信玄に通じていて、その上家臣の間では敵味方の風評に惑わされて互いに疑心暗鬼が生じて戦意を喪失していたので、氏眞は府中の城を脱出して竹尾の眞言寺へ向かった。
〇この日の明け方、信玄は人頭(*下男か?)2人と子分2人に駿府の城を放火させた。また、かねてから目に付けていた今川の什器や定家の古今和歌集など、名剣や利刀を彼らに盗み出させようとした。これを見た馬場美濃は非常に怒って、1騎で城の中に乗り入れて急いで館を焼き捨ててしまった。(*古今集は燃えてしまったのか?)氏眞が安倍川を渡るときには2千人ほどが従ったが、土岐の山家に着いたときには100騎もいなかった。
信玄は鹿子花に駐屯し、興津の横山に要害を築いて、穴山陸奥守信君入道梅雪を配した。
今川の従者の庵原彌兵衛は、碌は少ないが以前に山本勘助に兵法を学び優れた武将だったことを信玄は耳にして、使いを送って呼び寄せ、「少人数で立て籠もっても、大軍を防げる城に向いた要地はないか」と尋ねた。
彼は「有度郡に久能という山がある。後ろには長い尾根が深い山まで通じていて、三方は嶺が高く谷も深い。険しい岸壁もあって用水は切れず、曲がりくねった一筋の道を登るしかない。70人ほどで火砲を備えて守れば、何万騎が攻めてきても陥落はしないと、山本勘助がいつも言っていた」と答えた。信玄はさっそくその地に城を築こうと思い彼をその地に配した。彼は今川の人質を甲陽へ送った。
今川氏眞は、眞言寺から深根の山道を伝って、遠州掛川に向かった。
三浦右衛門義鎮は日ごろから掛川の城主、朝比奈備中守泰朝に対して横柄にしていたので、彼に頼るのはまずいと考えて父の小原肥前鎮實の居城の駿州花澤に向かい、そこで父子で立て籠もることにした。
駿河の藤枝の城の長谷川次郎左衛門一族21名、(兵は300)、久美山の由比、斉藤、浅原、また、遠州高天神の城の小笠原與八郎長忠、(始めは氏介)は熱烈な氏眞方の味方である。
家康の異父弟の松平源三郎勝俊と酒井左衛門尉の娘(於不宇)は、人質として駿府にいたが、氏眞が駿府を脱出する際、三浦與一という者がこの2人を信玄に渡した。信玄は大いに喜んで甲州に軟禁した。
これより前、遠州井伊谷の近藤石見信用は、息子の平右衛門秀用を三河の八名郡山野吉田まで行かせ、道中の様子を調べさせた。それから吉田の城への道案内を家康に申し出た。
13日、家康は中宇利の小幡まで進軍した。
菅沼新八郎定盈は前もってここへ来て待っていたが、近藤石見、菅沼次郎右衛門、鈴木三郎太夫はまだ来ていなかった。これは西の郷の海辺へ家康を迎えに行こうとしたが、道を間違えて引き返して小幡へ来たので、遅れてしまったからである。
定盈は彼ら3人と共に家康に面会した。
家康は「この路は浜名の両方の後藤が出てきて後ろから攻めてくるかもしれないので、各隊は乱されないように」と指示した。定盈は「彼らが縦令兵を発する(*?)ので自分の一隊で退治する」と家康に述べた、しかし、家康は自分の後衛の牧野右馬允康成と松平虎千代の兵を浜名勢に備えて配置した。
後藤覚蔵は、浜名肥前と後藤佐渡に見つからないように密かに夜中に本坂を出て、平山越から宇利に行き、今泉四郎兵衛に自分が家康の家来になることを伝えた。菅沼が喜んでそれを家康に報告すると、家康は彼を定盈の隊に加えた。
〇この覚蔵の子、覚兵衛は、家康が関が原で勝った後の本坂の関所の番衛であり、後年、遠駿両国の参議、頼宣にこの地を与えたときに、彼は頼宣の家来になったという話が伝わっている。
〇家康は、植柘(*つげ)山の方廣寺を訪れた。ここの僧侶とは前から知り合いだったからである。家康は境内の宿り木のついた杉が気に入って、将軍になってからもこの杉のことを尋ねた。家康は寺を訪れた後、井伊谷を訪れて泊まった。山名郡郡山名の庄、新地の郷士、加賀八備前政豊は国境まで出迎えにきて、家康に随行した。
〇ある話では、家康は牛窪から遠州本坂を経て摩訶耶寺を放火た。この寺は浜名の後藤の菩提寺である。その後大福寺の前暗がり峠を越えたという話があるが、間違いである。家康が摩訶耶寺と宇利の富賀寺、大洞山泉龍寺を焼いたのは天正元年1月7日で、信玄が野田の城を攻めるので、道筋を放火したためという。
〇遠州の敷地郡引間(*曳馬、浜松)の家臣、江馬加賀は、これまで徳川に帰属していた。ところが駿府勢に包囲され攻められたので身の危険を避けるために一時的に今川に降伏するが、時を見てまたまた徳川方へ戻りたいと密使を送って家康に連絡した。家康が了解したので加賀は兄の安芸にその事情を伝えると、安芸は喜ばず、「お前が最初から自分に相談してやったことであればいいが、お前のやり方は自分を売るようなものだ」と憤慨したという。
18日 家康は遠州の長上郡安間村の頭陀寺に陣を張っていると、江馬加賀の家来、小野田彦右衛門が使いとして来て、「江馬安芸は、自分が今川についているという罪を謝って徳川に降伏しても、弟の加賀には及ばないので褒められはしないだろう。まして囚われの身として生きるよりは、今川に仕えたほうがましであるといって、彼は今日加賀を殺害した」と報告した。それから彦右衛門は城へ駆けつけて安芸を討ち取った。彦右衛門は「安芸を討ち取り主人の仇をとったので、早く引間へ来てほしい」と家康に頼んだ。そこで家康は、石川伯耆守と天野三郎兵衛を城中へ派遣して、掃除や水の後始末をさせてから、引間に入城した。
〇これには別の説もある。それによれば、江馬安芸は甲州(*武田方)に向いていた。大久保忠世が辦口という商人と相談して江間加賀を家康方につけた。浜松の西来院の住職、鴻翁和尚が加賀の誓約書を岡崎へ持参し家康に渡した。これが縁で、鴻翁和尚は戦の度に家康に随行した。
加賀の軍勢が浜松の廣澤山の普済寺に駐屯して、引間の城内の安芸の住居を攻撃したが、加賀の方が命を落としてしまった。そこで家来の小野田彦右衛門が安芸を攻めて槍で突き殺して首を獲った。後年、加賀の子、與右衛門は子供だったが、家康に直訴してこの時の事情を説明した。家康は彼に食碌千石を与え、荒井の勤番をさせた。後に遠州と駿河を頼宣(*徳川頼宣)に与えたときには、江間與右衛門も他の国人ともに彼の家来となり、子孫は紀州にいるという。
〇ある資料によれば、家康は引間城外の端郭にある法華寺に駐屯し、山岡半左衛門、植村與三郎を駿河の信玄の陣に送り、「近々に掛川の氏眞をここから攻撃する予定だ、しかし、きっと北条が駿州へ救援にくるだろう、したがって(*こちらが掛川を攻めている間)信玄は北条と戦ってほしい、戦いに勝てば、大井川を境として東側を家康は治める予定だ」と告げた。
〇別の話として、小野田彦右衛門の勧めで、家康は大久保忠世を城の近くの玄黙寺に駐屯し勝鬨をあげた。しかし、引間の城は静まりかえっていた。そこへ五社大明神の宮司が角取紙(*紙を串にさしたもの)を差し上げながら出て来て、「江馬安芸の兵は全て逃げたので、城には敵はいない」と告げた。忠世は本丸に旗を掲げて、鉄砲を撃って勝鬨を3度上げたという。
〇『参河記』によれば、朝比奈右兵衛太夫は12日に氏眞に叛いたが、三浦右衛門が逃げたのでもう一度氏眞の味方にもどり引間に篭ったが、その時一度今川から離れたものの三浦が逃げたのでもう一度掛川へもどってくる者もいた。朝比奈は翌年正月8日の午後、家康が向かってくると聞いて引間から逃げ出したというが、これは間違いだろう。引間が今月18日に陥落したのは間違いないので、翌年の春先まで朝比奈が引間にいるはずはない。信玄は右兵衛太夫が自分の側へ帰って来たことを評価して、今川からもらった領地に富士郡の一部を加え、その地も駿河と改めて厚遇されたということから、右兵衛がいかに不義な輩であったことを分かるべきである。
〇先日信玄は遠州周智郡乾の庄の天野宮内右衛門と内応して、秋山伯耆晴近を信州伊奈郡高遠から山道を通って遠州愛宕に軍を送らせた。秋山は使いを久野三郎左衛門へ遣って味方に付くように誘った。しかし、久野は「自分は前から家康についている」と答えると、秋山は怒って平尾村から出撃して久野城を攻めようとした。久野一族は鼻闕淵を要害として応戦し、秋山勢を打ち払い、首を取った。味方も久野彦六以下10人が戦死した。
また、近日中に家康が掛川へ進軍すると聞いて、秋山は早速平尾村を退き、城飼郡を支配している高天神の小笠原與八郎長忠を味方になるように誘った。長忠はなんとかその誘いに応じて秋山の陣所へ赴いた。その途中で小笠原新九郎安元(後の康元)と同伊予守に出会った。彼らは家康の命令で與八郎を味方につけよう高天神へ向かうところだった。そこで新九郎安元は、家康の意向を與八郎に伝えたが彼は疑って態度を決めなかった。
そこで、安元は「家康には徳があって、信玄はこんなに暴虐だ」と盛んに弁じたので、とうとう與八郎は態度を決め、安元は彼を連れて家康の陣へ帰ってきた。家康は感心して與八郎に杯を与え、新九郎の手柄に対して三河の赤羽村、赤澤村、蘆村を領地に加えた。(このとき伴中務盛陰も安元とともに長忠を味方に付くように誘ったという)
〇ある話では、馬伏塚の小笠原美作守長秀は、中泉の東方、室井の渡りへ出撃して家康軍に備えたので、家康は西郷弾正左衛門清員を室井の西ヶ崎に向かわせて応戦した。しかし、西郷は敗北した。家康は憤慨して出馬したが、そのとき、手を洗う水を求めたので大須賀康高は湯瓶の湯を出したが、熱かったので叱られた。康高は家来に、「自分がもう一度室井へ出撃するときは最初に川を渡れなければ戻って帰られない」と諸将いったが、実際彼は最初に飛び出して川を渡り、槍で戦い始めた。続いて菅沼定盈が飛び出し奮戦して敵を多数討ち取った。そして美作守はついに降参した。しかし、その時期は伝わっていないので定かではない。
15日 秋山伯耆晴近は、信州伊奈の軍勢3千600あまりを率いて、再度二股と愛宕山を経て見附の宿まで出撃して来た。ここで奥山、河合などの郷士が秋山の味方になった。秋山は遠州の山沿い郷士の人質を求め、応じたものにはその先祖の由緒を自己申告させた。
その時勾坂六郎五郎が来て自分は宗家だと書いた。次に同じく十左衛門が来て、自分が嫡子だといって両者が言い争った。六郎五郎は席を立って十左衛門を帰るのを待っていて彼を殺害し、引間に来て秋山の戦略を家康に告げた。
山家三方(*山家三方衆:作手の奥平氏および田峯の菅沼氏・長篠の菅招氏をいう)、筑手の奥平美作守貞能、長篠の菅沼左衛門佐貞景、同新九郎貞正、多嶺の菅沼刑部貞吉、新三郎貞忠など2千が引間を出撃して秋山と戦ったが分が悪かった。秋山は引間から遠州の諸氏を負かそうと進軍軍し、山家三方衆も大菩薩、市野、石田、有玉などで彼らと交戦した。
19日 家康は久野宗能の領地が近いので、天竜川に舟橋をかけるように命じた。
20日 家康の軍勢は次々と舟橋を渡って佐野郡掛川の城の1里ほどを斜めに見ながら陣を張った。敵が攻めてくれば前後の備えを整えて応戦するようにと、家康は石川日向守家成に命じた。掛川の城主、朝比奈備中守泰朝は、主君の氏眞を守るために駿河の残兵3千人を集めて城に立て籠もり、城を固く守った。世の人々彼の義もあり勇もある姿を賛美した。
〇ある話では、この時家康は井伊谷より掛川まで、大天龍、小天龍の東渡りや市野村、森の郷、袋井筋から岡崎までの通路の危険をなくす手を打ったという。
〇『中興源記』にあるように、この時、本多百助が浜名の城を守ったというのは間違いである。この時、まだ浜名肥前は家康の味方ではなかった。
21日 家康は、侍大将6人に掛川の城へ向かわせた。
1陣は酒井左衛門尉、2陣は石川伯耆守、3陣は松平左近太夫、4陣は鳥居彦右衛門、5陣は大久保七郎右衛門、6陣は石川日向守である。家康の本陣は大山瀬に置いた。左右の備えは、本多平八郎と榊原小平太であった。このとき両将は共に21歳だった。
井伊谷の三人衆、近藤石見、菅沼次郎右衛門、鈴木三郎太夫を案内とし、菅沼新八郎を魁として、家康軍は夜明けに井伊谷の搔揚砦を急襲した。武田方の小野、松下、中野などは狼狽してすぐに逃げたので追撃して首を獲った。
菅沼新八郎定盈らは勝ちに乗って、気賀兵部の砦を急襲包囲して攻めた。敵はしばらく交戦したが結局逃亡した。定盈は家来で叔父でもある菅沼苗又右衛門にこの砦を守らせ、どちらの砦も落としたことを大山瀬の家康に報告した。
今日、久野宗能とその子千菊丸、そして彼の一族が家康に面会し、千菊丸を質として差し出した。家康は感心して、久野の領地を保全することを保障した。
22日 味方の6将が率いる軍勢は、掛川の城下に迫った。家康の本隊は相谷に駐屯した。
城兵は、「敵を城壁の近くまで寄せてはまずい。だから城から外に打って出て追い払うのがよい。敵は敵の領土での戦いだから疲れているはずなので、こちらが先に突撃して入れ替わり立ち代り新しい兵をだして息を切らさないよう攻めよう」と考えた。それで50騎ほどが追手門から飛び出してきた。
味方にはそれが解っていたので、「決して自分からは飛び出さず陣を固めよ」と前線に指示し、敵を陣営までひきつけ、彼らが陣へ攻め込んできたときに左右から先陣も後陣も一緒になって攻撃した。それには流石に今川勢も劣勢に回り、それを見た味方は勝鬨を上げて追撃し200ほどを討ち取った。また、その勢いで城を包囲した。
桑田村には酒井忠次、石川家成、曽我山には酒井雅楽助、松平玄蕃允など、天王山には小笠原一族、久野一族が柵を設けて守っていたが、今日からそれ以外にも3箇所に附城を築いた。(本多重次、渡部、服部の両半蔵、それに近臣が交代で掛川城を監視した)
26日 附城が完成したので家康は兵を配した。掛川城の外郭の西町口に面した金丸山の附城の本丸には久野宗能、二の丸には同佐渡宗憲と本間五郎兵衛長季(初めは十右衛門)を配置した。東口に向かって青田山の附城には、形原、福釜、竹谷、東條の松平家、笠町の附城は山家三方衆が守った。
27日 家康は天王山に本陣を移した。小笠原長忠一族は掛川の城に放火して、城将の朝比奈泰朝と石川伯耆守が交戦した。味方の原興太夫は泰朝の家来、讃井善右衛門に討たれた。城方では、日根野源太と鈴木深右衛門が討ち死にした。平岡主膳には功績があった。
28日 正午、西郷方が城方を攻めた。水野惣兵衛忠重、名倉の奥平喜八郎信光(後の戸田加賀)が勇敢に戦った。家康は「附城の守りを怠るな」と告げて見附に兵を収めた。
〇ある話では、信長の娘が岡崎へ輿入れたときに一緒に来た中島與五郎の嫡子が、今日遠州高塚で領地100石をもらった。(後で子も與五郎となった)
〇ある説によれば、遠州鑰(*かぎ)掛の城代、松井因幡、日比澤の後藤佐渡、弟の藤八郎、色鹿野彌兵衛、久野一族、天方 山内山城守、西方の松下一党、勾坂一党、植村一類らの人質を本多百助信俊が受け取り、三河の吉田の城へ送った。また、奥山大膳、同山城、天野景貞が武田方なので、堀江吉備へも掛川の寄せ手の一部を分けて攻めさせた。吉備では水野忠重に戦功があり、獲った首に旗を副えて家康へ届けた。しかし、その時、後藤天方はまだ降伏していなかったので、この説は信じられない。
〇ある話では、久野の家来、本間五郎兵衛長季はこの時家康に仕えて山名郡高部郷に住んでいた。彼は小野田村、屋佐古村、木原郷、篠原の里、飯尾村などを与えられた。ここは将軍尊氏が先祖へ出した印章を数通今に伝わり、本間家が今も持っていたという土地である。
その昔、本間河内守良清は、(*足利)持氏に仕えていたが鎌倉永安寺で自殺した。その子、辰若は僅か11歳で駿河に隠れて今川家を頼って領地をもらい、遠州に住んで久野の城番を勤めた。そのため世間では久野本間と呼んでいた。先祖が持ってきた領地は良清が死んでから転々としていたが、今度長季はその地をもらって非常に喜んだという。
〇先に滅びた三好三人衆をはじめとして、天野和泉守、篠原玄蕃允、吉成勘助、加地権佐、堅田采女、松山彦十郎、奈良左近などや、四国から海を渡って摂津と和泉の間へ来た者たち、また五畿内に隣接する諸国に潜んでいた者たちが勢力を盛り返し、美濃から逃げてきた斉藤右兵衛太夫龍興、長井隼人利道、薬師寺九郎左衛門などを大将として、将軍方の三好左京太夫義継の和泉の家原城を陥落させた。(12月28日)、そうして、翌年の春には京都へ登って幕府を攻めて滅ぼそうと頻りに画策していた。
武徳編年集成 巻9 終
コメント