巻8 永禄8年3月~永禄10年12月
永禄8年(1565)
3月小
7日 家康は三河の検断職(*争いごとの判事や検察の係)を決めた。高力與左衛門清長(後の河内守)、本多作左衛門重次、天野三郎兵衛康景の3人である。「高力は慈悲深くて仏だ、本多は強硬で怒りやすく鬼だ、そして天野は思慮深いが優柔不断だ」と、彼らの噂は流行歌として世間に広まったそうである。
5月小
15日 応仁、文明以来世の中が戦乱に明け暮れ、その上足利将軍家は分裂して弱体化が進み、権力は菅領の細川に移った。しかし、こちらも脆弱で細川の老臣の三好家が実権を握ってしまったので、細川晴元以来菅領職は名ばかりとなって実権がなくなってしまった。その三好家も長慶が亡くなった跡を継いだ左京太夫義継はまだ若く、三好の一族の内の3人と、義継の付き人で執事の松永弾正少弼久秀らがクーデターを起こして、今日足利義輝を暗殺した。(光源院) 義輝の弟、一乗院門主覚慶(*後の足利義昭)は江州矢島に逃れて、密かに兵を挙げることを計画したという。
〇この日甲陽の武田信玄は、自分の跡継ぎの太郎義信を牢に入れ、義信の家来、飯富兵部虎昌、曽根周防、長坂源五郎など80余人を斬り殺した。
7月大
〇家康は戸田三郎右衛門忠次に三河の渥美郡大津を与えた。この地は、一向一揆の頭目だった大津土左衛門時隆から没収した土地である。
9月大
〇織田信長は織田掃部信昌を通じて武田信玄の次男、諏訪四郎勝頼を婿にしたいと申し入れた。信玄は、「信長は当節の英傑だから親戚になるのは願うところだ」と早速信玄の提案に応じた。
11月大
27日 家康は、三河の加茂郡の住人、鈴木重量に領地を与え、証文を授けた。
「証文」
12月大
13日 織田信長の養女が甲陽の諏訪四郎勝頼に嫁いだ。
信長は戦乱の申し子のように、謀略によって敵の頭目を滅ぼしてきた人である。彼はこの春、「信玄が嫡男の義信を殺したので、母の意向に沿って勝頼を跡継ぎにするだろう」と察して、勝頼の妹の嫁ぎ先の親戚の遠山勘太郎の娘を養女として育てて、勝頼の婿にすることを企んだそうである。
そもそも、今川義元は信玄の妹の婿であり信長に敵対していたが、桶狭間で命を落としてしまった。彼の息子の氏眞は、愚鈍で父の敵を討てる器ではない。だから本来は叔父である信玄が、氏眞を助けて信長を撃つ戦いをすべきなのに、それはせずに信長の計略にかかって信長の親戚になったというわけである。
19日 御家人の上田萬五郎元次が死去した(79歳)。この人は石川安芸守清兼の娘婿である。
20日 遠州敷知郡引間(*濱松)の飯尾豊前守致實の姪は、今川氏眞の寵愛を受けていたが、致實が家康に内通しているという噂があり、氏眞は彼を駿府へ来させて、100騎余りの兵で屋敷を攻めて破壊しつくした。この時、飯尾の20~30の騎兵が、命がけで防戦して今川の兵を多数討ち取った。致實の夫人は非常に勇猛で奮戦した。(この戦は駿府の小路軍とよばれている)。なお、飯尾の家臣の江馬氏は、引間の城を守って家康に近づいていたが、今川の大軍に攻められたのでとりあえず禍を避けて、妻や子を質として今川に降伏したという。
永禄9年(1566)
正月小
13日 武田晴信入道信玄は、比叡山の明王院に賄賂を送って大僧正になる。このようにして僧の位を手に入れるとは、行き過ぎも甚だしいことである。
2月大
2日 参州碧海郡田村の地元の士、高木太郎左衛門宣光入道性玄が死去した(享年82歳)。(この人は主水正清秀の父である)
10日 家康は、遠州の引間の江馬安芸守と同加賀に、亡父の領地を与えることを密かに認め、2人が既に家康方についていることの感謝の印とした。
5月大
3日 この頃家康の家臣の牛窪の城主、牧野右馬允成定が死去した。享年42歳。
9日 牧野成定の子、新次郎康成とその一族の出羽成清が跡目争いで訴えを起こした。家康は出羽を放逐し、新次郎に跡目を継がせる証明書を与え、右馬允と襲名させた。
「証明書」
〇同じ日、長澤の松平康忠に領地を与える証を与えた。
11月大
4日 家康の命令で水野下野守信元は牧野康成一族とその家臣団へ手紙を送った。
「書状」
12月小
29日 家康は従5位三河守に任じられた。
〇この月、三河の岡崎菅生の佛現山随念寺へ、家康は自筆で境内および門前の諸役の許可証を与えた。この寺には善徳院(清康)の墓碑がある。
〇戸田三郎右衛門忠次に与力22人を付けた上、領地として設楽郡野田郷の一部を与えた。同族の兵右衛門、九右衛門、與五右衛門、藤田左京、同彌七郎の功績を評価して知行を与えた。
〇伊賀の武将、服部半蔵正成が家康の家臣となる。
彼は最初京都の幕府に仕え、その後一族を引き連れて三河へ移り住み清康に仕えていた服部石見守正頼(浄閑または一雲斎)の五男である。正成は武者修行のため三河を出て、この頃駿河でフリーランスとして出仕していた。同名の保次も去年から家康についた。故一平保俊の1人息子の一郎右衛門保英も、今年13歳で家康の近臣になった。そのため、遂に正成も家康の家来になった。この人がいわゆる「鬼半蔵」である。
永禄10年(1567)
正月大
〇三河の鈴木日向守重恒とその子の監物重儀は、これまで家康から小さな領地をもらっていたが、遂に駿河へ逃れて氏眞方についた。
4月
20日 上杉謙信は加賀の尾山の城を攻撃した。城将は大坂の本願寺光佐上人の守護代、下間筑後法橋頼純である。彼は非常に勇敢で1日に22回も城から突き出て交戦した。
寄せ手の甘糟近江隊の隊長神保主殿は、3度一番槍を務め、5度は敵の首を獲り、ようやく城の外郭を破った。
21日 謙信は、下間の兵のあまりの強さに参って和融を提案し、この城を彼に与えた。また、この国の検断役として、二の丸に鯵尾備中を配し、神保には感謝状を与えて、その名前を軍八と改め越後に兵を収めたという。
5月大
25日 ニ連木の戸田弾正(初めは甚平)が早世した。家康は彼の死を惜しんで、その幼い子、虎千代(当時6歳、後の松平丹後守康長)を呼んで遺領を相続させ、家康の異父兄妹の久松俊勝の娘(2歳)を妻に定めた。
牧野新次郎と虎千代の父は、2年ほど前に家康の家来になっていた。しかし、家康が幼い虎千代に2人の禄を継がせて庇護しているという話が国内外に流れた。そのため多くの人材が呼びもしないのに集まり、薄給で雇われて戦いで活躍した。
27日 織田信長は娘の徳姫を家康の嫡男、三郎信康の正室として岡崎に嫁がせた。信長は娘を佐久間右衛門尉信盛に送らせ、生駒八右衛門と中島與五郎を附けた。信康も徳姫も今年で9歳である。
〇この月、家康は内膳三左衛門信成に越後を訪問させ、謙信へ高麗茶椀を2個贈った。また、宇佐美定勝と長尾志村之助へ、それぞれ唐の頭(*ヤクの毛がついている洋風の兜)1個を贈った。謙信は喜んで信成を饗応し、駿馬を与えたという。
10月大
この頃、三好の嫡家、左京太夫義継はまだ若く、一昨年来、彼の家来の松永弾正少弼久秀と三好日向守長縁入道北斎、同下野守政康入道釣閖、同山城守康長入道笑岩、岩成主税助左通、松山安芸守、篠原右京進場長房らとの確執によって、数回戦いが起きていた。今晩、久秀は奈良の大仏殿の敵の陣地を夜討ちして、300人ほどを斬り殺した。このときに大仏殿も含めて(*東大)寺は焼失した。
このように蕭牆(*うちわもめ)で毎日戦いが起きていたので、先の将軍の弟、一乗院主覚慶は越前で世俗に戻り、朝倉義景を領代として元服式を終え、義昭となったが、彼が逆臣を討伐しようという企てがあるというので、三好と松永は軍を北国に向ける相談をしたが成功せず、むしろ久秀が義昭へ内通したという。
19日 武田太郎義信が、獄舎で父信玄の命令で自殺した。彼は優れた武将だったので、国人は皆、彼が誅殺されたことを嘆いた。
11月大
19日 武田義信の妻は駿河へ戻った。彼女は今川氏眞の妹である。氏眞は信玄の無慈悲を憎んだ。
〇この月、諏訪四郎勝頼の妻(信長の養女)が男子を産んだ。信玄は喜んで武田の嫡子にしようと太郎信勝と命名した。母は程なく病死したという。
12月小
21日 織田信長の息子(後の信忠)と武田信玄の娘の於菊の婚約が成立したので、信長は織田掃部助信昌に結納品を贈らせた。厚板(*厚地の生地)と薄板、緯白、織紅梅各百端、帯上中下を300筋、青銅10貫、樽にはいった肴などだった。また信玄には、虎と豹の皮を各5枚、純子100巻、金貝鞍鐙10口を贈った。(当時菊姫は7歳だった。彼女は結局信忠とは結婚せず、勝頼の時代になって上杉景勝の正室となった)
29日 氏眞は天野景貫に感謝状を贈った。
「感謝状」
〇この年、家康は初めて榊原小平太に役職を与え、与力を付けた。彼はその時20歳だったが、非常に優秀な武将だったためである。(翌年、諱の一字をもらって康政となった)
武徳編年集成 巻8 終
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