巻93 元和3年2月~ 日光東照宮と紅葉山の家康廟の建設略記

日光東照宮と紅葉山の家康廟の建設略記

(元和3年2月~元和4年4月24日、寛永14年3月17日~4月5日、正保2年11月9日~17日、慶安3年6月8日)

元和3年(1617)

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21日 御所の陣の座(近衛府の儀式の間)で家康に大権現という新号が授与され申し渡された。上郷(*?)は日野権大納言弘資、職事(*?)は廣橋辨兼賢が行った。

3月小

9日 家康に正1位が与えられた。

15日 家康の遺言によって、太僧正天海が駿河の久能山に葬っている遺骸を上野の日光山へ移して祭るように段取りし、天海と本多上野介正純、土井大炊頭利勝、松平右衛門太夫正網、板倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝、祭主の榊原内記清久と騎士300、雑卒千人で、久能山に登り天海は自分で鋤鍬(*すき)を手にして作業を指揮した。

この儀式は大職冠(*藤原鎌足)を和泉の多武峯に改葬したときの形式に従ったものである。この日、棺は久能山を発った。儀式に参列した人々や尾陽義直、駿陽頼宣、水戸頼房のそれぞれの元老、成瀬隼人正正成、安藤帯刀直次、中山備前守信吉、また比叡山と関東の天台宗の碩学などが随行した。

16日 棺は伊豆の三島に着き、1日滞在した。

17日 秀忠は江戸の三緑山増上寺の御霊屋へ参詣した。浄土宗では徳蓮社崇誉和人居士と命名して安国殿と呼ぶことにした。

18日 棺は相模の小田原へ着き1日滞在した。

20日 棺は相模の中原に着き1日滞在した。

21日 棺は武蔵の府中に着き2日滞在した。

24日 棺は武蔵の仙波(*川越)に着き2日滞在(26日には天海は僧たちに法華経を唱えさせた。

27日 棺は武蔵の忍へ着いた。

28日 棺は上野の佐野に着いた。ここは本多上野介の領地なので、犬伏と天明の間の春日岡寺に仮の建物を建てて棺を納めた。

29日 棺は上野の鹿沼に着いたが、日が悪かったので、特別に4月3日までここに滞在した。この時、日光山では東照大権現の本殿、諸殿、回廊、関連施設はすべて完成していた。

4月大

4日 午後、棺は日光山座禅院に入った。

8日 棺を本殿の上にある奥の院の廟に移した。

14日 御霊を仮の神殿へ移した。秀忠が出席し、勅使の廣橋権大納言兼勝、西三条権大納言實條および、奉行の烏丸右中辨光廣、宣命使 阿野参議實顕、奉幣使静閑寺参議共房、仙洞使日野権大納言弘資らが参加して、東照大権現と正式に崇め祭った。

15日 秀忠が参詣した。

16日 御霊を本殿に移した。勅使など出席者は、一昨日と同じメンバーだった。ただ、今日から奉幣使は中御門参議宣衡である。

17日 本殿に於いて、天皇主催の法要が営まれた。導師は梶井御門迹最胤親王、執葢(*?)は西洞院参議時直、執網(*?)は唐橋民部少輔壬生極﨟であった。勅使などは最初と同じで諸卿が出席した。秀忠が参詣し、太刀持ちは吉良侍従義彌、剣持は酒井下総守忠政、御裙は永井信濃守尚政が担当した。奉幣は大澤少将基胤という。

19日 奥の院にて廟搭の供養のため、法華経1万部の読経が今日から始まり、薬師堂供養も行われ供物や布施は莫大だった。

元和4年(1618)

4月大

17日 本社の華表(*鳥居)は、筑前太守の黒田長政が建てた。高さは上の笠石まで2丈8尺、両柱の間は2丈2尺、亘は3尺5寸。この石材は、筑前志摩郡小金村の南山で切り出した。これは南海を経て献じられた。これで彼は大国を領地とされたことへの感謝を表したという。

寛永13年(1636

3月小

2日 宮中近衛府で、陣の座が開催された。これは次の理由による。

家光は外国関係の諸事に忙殺されていたが、これから内政を立て直すために、絶えたり、すたれたりしていた諸事を再興する始めとして、日本は神の国なので、大きな神社では20年ごとに社を立て直すことになっていて、伊勢神宮の内宮、外宮が大昔から行って来たが、元弘建武以来神社の財政が乏しくなり、その儀式もなくなってきているのを嘆いて、その理由を調べさせた。その結果、ちょうど東照宮の建て替えの時期になっていることで、幕府は秋元丹波守泰朝に命じて、伊勢神宮の山口祭の時から、国中の大工を集めて日光山の神殿を新たに建造させた。すると天候のいかんにかかわらず、庶民も競って集まり早速建設が始まり完成した。

そこで今回の陣の座が開かれ、新しい宮へ移す日取りを陰陽頭の加茂友景に命じて決めさせた。上郷は轉法輪権大納言實秀、奉行職事は鷲尾頭中将隆景が指揮して、4月10日の深夜にこの儀式を行った。

〇同日正午、東照大権現の一つの社で、奉幣使を派遣する儀式で陣の座が開かれた。上郷と職事は上と同じだった。ただし、宮方を兼ねてあらかじめ官幣のことを命じた。

5日 陣の座が行われ、日光山薬師堂供養の日時が定まった。上郷は勘修寺権中納言経廣、奉行職事は鷲尾頭中将忠影、宮方は日野右小辨であった。日時は4月19日早朝に決まり天皇に奏上した。

4月大

10日 (曇り)日光山にて深夜、東照大権現は新設の神殿へ移した。日吉神社の神官が仮の神殿から移した。天海僧正と松平右衛門太夫正綱(最初は正久)、板倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝が随行した。道中の辻々の衛士は、近国の譜代の大小名が務め、次第によって執り行った。奉行職事頭中将隆景の指示によって、大外記中原師生、官務は壬生忠利、出納は中原職在などが諸司を指揮して彼らの任務を果たさせた。烏丸権大納言光廣、廣橋権大納言兼賢、高倉権中納言永慶、飛鳥井権中納言雅宣、小川某城参議左大辨俊完は遅れて来たので、正體が鎮座した後に拝殿の右側に座った。やがて神饌を供え、伶倫(*楽師)が音楽を奏し、僧侶による法会が行われた。

11日 早朝、勅使などが全員神殿の前に集合して、奉幣使の姉小路参議公景が拝殿の南の端の北面に座った。内蔵寮大蔵省調進の幕府の幣が、空櫃に入れられて神前へ衛士によって運ばれ、公景が立ち上がって幣物を収めた。次に日野賢勝が剣を持って外陣の台に置いて退く。次に仙洞から奉納された剣が烏丸光廣が持ってきて同じところに置いて退く。次に国母から奉納された鏡2面、小葵の蒔絵が梨子地の2個の箱にいれられたものを、廣橋兼賢が2回運んできて置いて退いた。次に堀川康胤が、拝殿の中央で宣命を読んだ。その間に馬2頭を左馬允松久と右馬允武教が引いて来た。その後奉幣使が1人で、幣物や剣を奉納し、宣命使も兼ねた。また勅使が公郷の場合は、次官が1人沿うことになっていたが、今回は正しく準備されていたので、宣命も過去の例とは違っていた。これもみな家康の徳によると考えられる。

13日 家光は江戸を発って武蔵の越谷の宿で泊った。

14日 家光は下総の古河の城で泊った。(城主は土井大炊頭利勝)

15日 家光は上野の今市の御殿に着た。今日から日光山の神前で法会が始まった。

17日 家光は日光山の神殿に到着して、東照大権現の大祭に参加するために桟敷についた。家光も伴の者も旅の装束で他の人々と違っていた。祭主従2位榊原輝久(最初は大内記清久)は束帯騎馬布衣4人、素袷着10人、白丁10人、傘持1人を連れて参拝した。辻々の警護は譜代大名の家来たちが務めた、家光は元の御殿へ帰り、束帯に着替えて新しい本殿を詣でた。その時の御簾は堀田加賀守正盛、裙は安部豊後守忠秋が務めた。吉良侍従義冬は奉幣を捧げた。酒井讃岐守忠勝が剣を捧げ、朝鮮から献じられた龍蹄を連れて納めた。また、奥の院の廟に詣でた。

18日 職事は左少辨綏光が、天皇の勅命を受けて拝殿で法会供養を執り行った。御所から布施として綿子千屯、国絹千匹を僧たちに与えた。西三条前内大臣實條(装束一日晴*?)出座鷹司右大臣教平始め月郷雲客(*来賓)(各束帯)が座り、家光は拝殿左の北の上西面に着席、彦根少将直孝、郡山侍従忠明、古河侍従利勝、若狭侍従忠勝などは一階に着席した。吉良少将義彌は花籠を捧げ、同侍従義冬は左の後方東の上北面に座った。導師大僧正天海、梶井最胤法親王、同新宮茲胤法親王、妙法院堯然法親王、青蓮院尊法親王、毘沙門堂権僧正公海が出て、被り物3重を受け取った。前内大臣がプレゼンターを務めた。その他の僧も被り物を受け取った。この夜、法眼祐孝は神前で護摩を勤めた。

19日 本地薬師堂で供養が行われた。公卿や来賓が出席した。諸事は昨日の通りだった。ただ、鷹司は出席しなかった。家光も出席したが、午後には今市の御殿へ帰還した。しばらくして旅立ち、帰途の宿泊場所は来るときと同じだった。総奉行の讃岐守忠勝が随行した。

21日 家光は江戸城へ帰還した。今日から遠近の僧侶7千人を招集して、法華経を読ませた。榊原2位照久、高力摂津守忠房、内藤伊賀守忠重、松平右衛門太夫正綱、坂倉内膳正重昌、秋元但馬守泰朝、秋山修理亮正勝、宮城越前守和甫などが執行した。

22日 導師天海僧正には布施として白銀3万両、毘沙門公海僧正へは白銀5千両、その他僧正、院家、役者などへ2千両とか、500両、300両、200両が与えられた。また一般の僧侶には青銅あわせて3万3千貫、綿子千屯、国絹線匹、日光の社には白銀5万両が与えられた。今夜法会は終了した。

24日 日光山銅華表の中に舞台が設けられ、4座の猿楽が催された。門迹方、公卿、殿上人、僧侶が桟敷で見物したという。これは諸社の例に習った。(昨日6時間のうちにこの桟敷は作られた。庄田小左衛門、島彌左衛門が奉行した)秋元但馬守と奉行数人は珍味をあつめて出席者たちを饗応した。

寛永14年(1637) 江戸城内紅葉山の家康廟造営の略記

3月小

17日 家光は今度城の屋敷を改造するにつけ、まずは廟から始めるという例に沿って、城内の西にある紅葉山に東照権現の廟を建てることにした。小笠原右近将監忠眞が監督する時、廟を南向きにしようと決め家光に伝えると、「東も南もだめだが、東照宮の名前に因んで東にする。しかし、神様に伺うべきだ」ということで、作事奉行の佐久間将監實勝から、権僧正忠尊に連絡して今日實勝は齋戒(*身を清める)して増上寺安国殿の霊前で占いを行った。その結果、1番が東、2番が南となって、東が最良だという結果となった。更に東と南とそれぞれ書いた紙を丸めてくじ引きをすると、また東が出た。その結果家光の決めた案は、神の意向にも沿うというので皆が信じた。源頼朝が籤で鶴岡八幡宮を小林郷に祭ったのと同様である。

4月大

朔日 紅葉山の廟の地形調査が明け方から監検の作業員によって始まり、人夫が大勢集まった。すると鶴が一羽飛んできて降りたのを奉行の小笠原忠眞の家来が捕えて、家光に献上しようと思ったが、家光が日ごろこの辺りで飼っていた鶴だったので、追い返した。しばらくすると今度は2羽が飛んできて舞い降り、そこで休んだが非常に端正で美しく、和に似合った姿だったので、皆が霊感を感じた。その鶴は東へ飛び去った。鶴は鳥の中でも霊長の鳥である。昔黄帝がいろいろな神に会ったとき鶴が右に舞っていたので、天の声を聴くめでたいことだと、漢の皇帝は祖先の霊廟を建てると鶴が庭に集まるので、皇帝が望むと壇上に鶴が舞い降りた。これは中国も日本も同じだというわけで、家光に報告した。家光はこのところ体調が悪く休んでいた。時は姫が生まれる臨月でもあり、唐の皇帝の初産の時に鶴が飛んできたこと合わせて考えると、實に素晴らしい話である。

5日 すでに決められていた廟の予定地に縄張りが作られ、土を祭って鶴の到来を祝し、老臣や親戚縁者に饗応し、舞楽を演じて大僧正天海などが美しい服をまとってたくさん集まった。儒学者の羅山子道春、僧侶の沢庵宗彭が祝辞を述べた。ちょうど江戸城に来ていた烏丸光廣が和歌を献じた。

宮造り 嬉しき神の 御心と
千年や 告て鶴も 立舞ふ
更に又 ちとせはしるる 友鶴の
翼雙ふる 神の廣庭

いつも随行していた大橋左衛門眞政入道式部法印龍慶も和歌を詠んだ。

崇せす 神の誓も白鶴の
齢を君が 代々に重子て

寛永18年(1641)

〇諸侯に命じて日光山 東照大権現の宝塔を建造した。(松平伊豆守信網、安部豊後守忠秋、同対馬守重次が代々この山を監検した)

正保2年(1645)

11月大

9日 後光明院の勅命で、東照大権現の宮号が与えられた。宣命を今出川権大納言徑季がそれを携えて江戸へ来て、今日江戸城で授与された。

17日 日光山の神前で宮号の宣命を徑季が読み上げた。

慶安3年(1650)

6月大

8日 日光山相輪搭の建設が完了し供養が行われた。名代の井伊靭負佐直澄が剣と龍蹄を奉納した。この搭は比叡山寶幢院の物のコピーである。(*家光は翌年の4月に死去。48歳)

東照宮の鎮座場所

日光山(下野国)、 東叡山(*寛永寺)(武蔵国)、 喜多院(武蔵国仙波神領3千石)、鳳来寺(三河国設楽郡神領540石余り、薬師堂領は別である)、瀧山寺(三河国、神領610石)、龍華院(遠江国神領100石)、長楽寺(上野国、世良田神領100石)、慈賀院(近江国、坂本神領千250石)、龍山寺(尾張国、名護屋神領千石)、雲光院(紀伊国和歌山神領千石)、吉祥院(常陸国、水戸神領千石)、神護寺(加賀国、金澤神領千石)、利光院(備前国、岡山神領千石)、正壽院(陸奥国、会津神領千石)、仙岳寺(陸奥国、仙臺神領千石)

武徳編年集成 93巻(最終巻) 終(2017.6.27.)