現代文にするについて

筆者は、次の「家康の誕生」と「死去」の記述の例のような形で、原文を読みやすくしてみました。(*)は筆者の注です。

天文11年(1542)11月、
26日、三河(*現在の愛知県南部)額田郡の岡崎城で、松平廣忠の後継ぎ(*後の徳川家康)が誕生した。幼名は竹千代である。母(*後の伝通院)は同じく三河碧海郡の刈谷城と尾張の知多郡小川城の城主、水野右衛門太夫忠政の娘である。蟆目(*魔除けの弓を射る係り)を石川安芸守晴兼が、胞刀(*へその緒を切る係り)を酒井雅楽助正親が務めた。

『武徳編年集成』第一巻の本文は、徳川家康の誕生を記したこの条から始まります。家康に対する尊称や敬語などはここでは省略しました。


26日、参州額田郡岡崎ノ城ニ於テ 清和天皇廿五世 徳川贈正二位大納言廣忠卿ノ御嫡男 東照大神君御誕生アリ時ニ祥端多シ母公ハ参州碧海郡刈谷尾州知多郡小川両城主水野右衛門太夫忠政ノ女也蟆目ハ石川安藝守源晴兼御胞刀ハ酒井雅楽助源正親是ヲ役ス御幼名ヲ 竹千代君ト称シ奉ツル

そして、第90巻、

元和2年(1616)正月、
21日、家康がひいきにしていた呉服屋の茶屋四郎次郎道晴が京都から駿府の家康を訪れた。家康は彼に京や大坂の事情を尋ねた。道晴は「変わりはなく商人は商売より酒席や茶会に耽っている。新鮮な鯛を柏の油で韮炒めにするとうまい」などと歓談した。榊原内記清久が久能浜でとれた鯛を献じると、家康はさっそく料理人にそのように調理させて賞味した。その後家康は田中の城へ出かけて近辺で放鷹を楽しんだが、夕方城へ戻ったところで腹痛に襲われた。医者の片山興庵法印を呼んだが留守で来られず、萬病園という薬を飲み、落合小平太道次を江戸へ行かせて病状を秀忠に伝えた。しばらくして興庵は田中の城へ来たが家康に叱られた。

とあり、その後、彼の病状は悪化して、やがて、同年旧暦4月の条には、

17日、太政大臣、従1位、前の征夷大将軍、右近衛大将、浄和弉學院別当、源氏長者家康が75歳で死去した。⦅遺言には「秀忠は常に武を忘れるな」とあったという⦆

と記されています。

高敦は、過去の史料などに見られる間違いを修正するだけではなく、彼のみた家康をめぐる重要事項については少し長い記述や物語風の感想が書かれ、更にその伏線として彼が重要と感じた出来事を暗に示唆していると読める箇所が多くあります。その部分だけを通読すると、高敦の抱いた家康像や彼のこの歴史書を書きたくなった本当の動機が見えるように感じます。