巻57 慶長14年11月~慶長15年閏2月
慶長14年(1609)
11月小
5日 家康はここ数日放鷹の後、今日三島の宿に入ったが、体調を崩して駿府へ帰った。このことは安藤帯刀から秀忠へ伝えられた。
7日 夕暮れに、江戸の使いとして本多佐渡守が駿河へ着いた。71歳という高齢にもかかわらず、元気に籠を飛ばしてきたという。
8日 流罪の裁きを受けた公家や官女が、京都を発って東や西へ向った。親族や家来たちが淀、鳥羽、大津、山科まで送り、涙を流して別れた。
今日、猪熊三位教利は浄上寺で、又兼保備中守は常善寺で処刑された。
12日 高木善三郎守次(主水正清秀の三男で、母は水野周防守忠氏の娘)が36歳で死去した。
14日 月が四角形のような姿で現れた。出没うすずくが如し。(*西に沈むときの様だ)。
関東の一色宮内少輔義直が享年72歳で死去した。彼は先日引退して、嫡子の次郎昭直が家督を継いで、2千石の領地を加えてもらったので、全部で7千160石となって伏見の加番になったが、そこで昭直が死亡した。それで父の義直が、再び5千160石をもらって、杉浦五郎右衛門忠勝の子の忠次郎を養子として受け入れ、一色直為として家を継がしたという。
15日 山角市右衛門が、初めて秀忠に謁見した。彼は上野介定方の一族の紀伊守定勝の子である。
16日 本多佐渡守正信が暇をもらって関東へ帰るとき、秀忠が会いたいといっていたが、今回はスキップすると正信に伝えた。
〇尾張の義直の居城の清州は、東海道の要所ではなく、水難の多いさびれた場所で、この秋も洪水で浸浸水したので、この城を壊して名護屋に移すことになり、駿府から牧助右衛門長勝(最初は十郎長次)にこの城の設計をさせ、来年の正月から新城を築くように命じられた。名護屋は、天正13年に織田信雄が尾張の主だった時に、城を築こうとしたが、砂地で、塀や堀が崩れるので取り止めた。今回は全て石垣にしたので、砂地でも問題が無くなったという。
26日 家康の体調が回復した。
福島左衛門太夫が、木曽路から江戸へ参勤した。これは家康の密命によって、秀忠に国内の大名はそれぞれ江戸へ参勤して年を越す様に命じたからである。(秀忠は畿内の諸侯にはこれを免除し、美濃と三河の諸侯たちは、駿府で越年するように命じた。諸州の家来は駿府へ集まった)
12月大
5日 美濃の大垣の城主、石川日向守家成は、すでに隠居して息子の長門守康道が家督を継いでいたが、その息子は一昨年死亡した。そこで父の家成がもう一度大垣の5万石を受け持ち、隠居料の領地を外孫の大久保内記成堯に譲って、石川氏とした。しかし、この10月に家成が死去して、継ぐ人がいなくなった。
彼の兄の惣十郎忠総も、慶長5年の冬から大久保ではなく、母の姓の石川となって主殿頭になっていた。この人は、文武両道の才子なので、家康は彼を外孫の家成の家督として、大垣の5万石を与えようとした。ところが忠総の実父の大久保相模守は、「石川康道の子の弾正11歳が大垣にいるので、この人が石川の直系だ」と述べた。しかし、家康はこれを拒否した。その理由は、康道は先に家康の侍女が暇をもらった時に、彼女を召し抱えて寵愛し、弾正を生ませたためである。家康は弾正を大垣から江戸へ来させ、主殿頭〈*忠総〉には、家成の外孫の娘(堀尾忠氏の妹)を嫁がせて、相続させるように厳命した。
忠総は、祖父の大久保忠世の弟、権右衛門忠為を大垣に呼ぶことを家康に申し出ると、忠為は老巧な勇士なので、彼に補佐してほしいというのは尤もだとして、彼の願いは認められた。
〇伝わるところでは、その後大垣で、新田を開発したいと忠総が申し出たところ、「やってもいいが完成したらすぐに連絡するように、そしてその時は1万石分を権右衛門へ与えるように」と命じられたという。(忠為は元和2年62歳で死去した)
12日 牧野右馬允康成が享年55歳で死去した。三河以来の家康の家来で7年前に隠居した。
〇この日、肥前高来郡、原の城主、有馬修理太夫義純は、長崎の海上でマカオの船を撃沈した。(*いわゆるノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号撃沈事件)
(*『武徳編年集成』では有馬晴信は登場せず、全て義純となっている。著者の高敦は、人名などには特に注意して書いている筈なので、晴信が彼の兄で1571年に死亡していたということで、義純に全て置き換わっているのは非常に不自然である。単純な間違いかも知れない。以下では混乱を避けるために『義純』にアンダーラインを引いておく。なお『当代記』では『有馬修理』と書かれているので、特定はできない)
この撃沈の理由は、去年の春に家康が、長崎奉行の長谷川左兵衛藤廣に、チャンパ国のキャラ(*沈香)を手に入れるように命じた。ところが有馬修理太夫は聞き間違えて、自分持っている名香を献上した。家康は非常に喜んで「お前の領地からチャンパには海路で行けるから、急いで使節を行かせてキャラを調達するようにと、白銀1万5千両と甲冑屏風を与えた。
義純は家来を南蛮(*ポルトガル)の商船に乗船させてチャンパへ向かわせた。マカオに着くと、蛮船の船長の加昆丹(*カピタン*キャプテンを本名と思ったのか?)は商人のボスの眞加慮(*シンニヨロ*シニョールと呼ばれていたのを本名と思ったのか?)と相談して「日本の商船が毎年マカオへ来るおかげで、自分たちが長崎に行って儲けが少なくなる」と有馬の家来を買収し一行300人を一カ所に集めて焼き殺した。
しかし、3人が死を逃れて帰朝し、この事件を義純に報告した。加昆丹と眞加慮は、このことは日本へは伝わっていな筈だと思って、今年の順風の時期に長崎にやって来た。長谷川藤廣はすぐにこれを駿府へ報告すると、家康は非常に怒って、有馬と長谷川にその船を撃沈するように命じた。
義純は、駿府からこの6日に居城へ戻り、翌日に長崎に行き、長谷川藤廣と相談して、そのポルトガルの船を乗っ取るのが難しいので、家臣の林田作之右衛門と鬼地九郎右衛門に、その船に乗り移り、加昆丹に近づいて刺し殺す様に命じた。
2人は短刀を懐に隠して船に近づこうとしたが、相手は大銃を撃ってきたので近づけなかった。勿論彼らは陸に上がって商売もできなかった。
9日には、義純は急遽自分の領地へ使いを送り、城下の兵はもちろん高古賀の山田兵部など数千人を集めて、雑兵とともに有馬右衛門、結城彌平治、妻富越中、同河内などを軍船数十隻に載せて黒船と戦おうとした。(ポルトガルの船は漆を塗って非常に大きく俗に黒船と呼ばれた)黒船は帆を上げて逃げたが、2里ほどで逆風のために高鉾に錨を下した。(*『当代記』黒船は12~13里ほど漕ぎ出たところで風が出て、10里ほど吹き返されたとある)
長谷川藤廣は一計を案じて長崎に行き、荒くれ者を集めて遠方から水に潜って、友綱を切らせようとしたが鉄のように固くて切れなかった。
義純の弟の備中(*純忠)は、早舟でポルトガル船を監視しながら、安富越中に命じて漁船の小舟を多数集め薪を積んで黒舟によせ火攻めにしようとした。しかし狙撃されるので近づけなかった。その上、味方の小舟が火災を起こして、人夫が多数死んでしまった。
今日12日は海が荒れていた。義純の家来の高橋主水、久能善右衛門、長谷川角兵衛、竹富勘右衛門らは相談の上、今夜芝や薪を積んだ船を先に進めて兵を乗せた船を後に備え、黒舟に乗り移ろうと考えた。
義純は、「夜戦は危険だ、明け方にしよう」というと、主水角兵衛は「今晩やらなければ皆の気が抜けるだろう。もし夜中に風がやんで波が収まると、黒船は必ず出帆してしまう」といって、すぐに船を出した。
義純は小型の軍船に乗って指揮をしようとしたが、長谷川はそれを止めた。義純は「われらは黒舟に近づいて命がけで戦うべきだ。もし黒舟が帆を揚げて逃げ出すと西洋や南蛮まで何処までも追撃して日本の武士の心意気を示すのだ」といった。
こうして、黒船の母楫〈*右側?〉へは、有馬右衛門、結城彌兵治、山田兵部が、父楫(*左側?)には有馬備中、安富越中と同河内守などが攻めると決めて、深夜に黒船に接近すると、敵はしきりに大銃を発して来た。しかし、長谷川、高橋、井上蔵人、高尾七兵衛、林田作之右衛門が、櫓を設けた船で黒船に取りつき、林田助十郎が鎖鈎を黒船の中に投げ込んで、曳きつけ乱入し戦った。
安徳宮内、久野善右衛門、喜多市之丞、平井左衛門、高屋四郎兵衛、林田彌六郎、馬場右衛門八、結城七郎、馬場七郎右衛門、金子助作、渡邊庄次郎、峯安之助、林右衛門作などが戦死した。その他負傷した者が多数いた。
敵が疲れてきたとき、外国船を港に着けて、繊維品などの商売の際の検使として毎年駿河から長崎に来ていた、長谷川藤廣の弟が、軽装の軍艦2隻に商家を壊した材木で櫓を組んで乗せ、黒船の矢や鉄砲の死角を選んで船をこぎよせて黒船に乗り移り、船長の安眞を斬り殺した。(『当代記』ではこのアンジンがマカオで日本人300人を焼き殺した張本人だとある)黒船の200人あまりの乗組員は半弓で防戦し、儨吶(*しつとつ?)鉦(かね)銅鑼、喇叭(*らっぱ)、太鼓、銃声が数里先まで響き渡り戦いが続いた。
有馬勢の火矢が帆に移って火薬箱に至り、大音響が海に響いて、縦48尋(100m近く)幅18尋(30mあまり)の黒船は乗組員と共に焼け落ち、積み荷の白銀2千600貫、生糸20万斤あまり、金の鎖や金の灌繍羅布帛(*?)など数え切れないものが海に沈んだ。あとで漁師に調べさせると、船の浮かんでいる部分は、焼けて沈んだ部分は海底に見えたが、35尋(70mほど)の深さ(*『当代記』では25尋)あって、引き揚げることはできなかった。
海上には糸(*絹糸)だけが少し浮かび上がった。(*『当代記』によればこの結果、京都では生糸が不足して、絹糸の単位当たり銀が1貫2~3百匁の値段だったものが、2貫7~8百匁に高騰したとある)
有馬義純は「してやったり」と、翌日居城へ戻ってから、すぐに駿府へ向かった。
15日 常陸介頼宣は生まれつき優秀な人物で、家康はことのほか可愛がっていた。当時彼は水戸の35万石を持っていたが、駿府の城も譲って、駿河と遠州合せて50万石を与えた。
横須賀の城主、大須賀国丸などは、当分頼宣の家来となり、本多上野介の他は、当時家康に仕えていた諸臣の安藤帯刀はじめ、大方は頼宣に仕えることになった。家康は伊豆の景勝地に、近々城を築いて駿府を離れ、駿府を頼宣に譲ることになった。大須賀国丸は当時まだ5歳で、家督は武藤萬休斎、大須賀一徳斎が面倒を見ていたが、両人は今後は安藤帯刀が指示するように命じられた。
濱松城主松平左馬允忠頼は、この秋に不本意にも死去し領地は没収された。彼の家来たちは、今も濱松の領内に住んで所在がなかったので、去年頼宣の家来とされた水野対馬守重仲が濱松の城へ入って、彼らを取り仕切るように命じられた。頼宣は家康の死後は紀伊と伊勢の55万石に封じられ、和歌山の城に移った。
22日 水野重仲が濱松の城へ着いて、彼の兄備後守分長も、家康の命によって暫定的にこの城へ移って来た。
23日 鶴千代丸頼房が常陸の水戸25万石に封じられた。(後から2万石が加えられた)水戸は兄の頼宣が今まで持っていたが、駿河と遠州を持つことになったので、彼の後を頼房に与えたわけである。
松平安房守信吉の次男は秀忠の前で元服して諱の一字をもらい、兄の新六郎は忠国、弟の與七郎は忠晴となった。忠国には刀(包永作)、忠晴へは脇差(行光作)をもらった。後の山城守と伊賀守である。
27日 山口長次郎重信(但馬守重政の子)が従5位下伊豆守となった。
29日 戸澤九郎五郎政盛(右京亮)、土方雄重(掃部頭)、一柳直重(丹後守)がそれぞれ従5位下となった。土方雄重は河内守雄久の子である。一柳直重は監物直盛りの子である。
〇この年すべての諸侯の質子が江戸に集められた。これは去る慶長10年(1605)に京都で藤蔵高虎が進言したからである。
〇細川越中守忠興の弟、玄蕃頭興元には禄がなかったので、生活費を忠興に出してもらっていた。この人の武勇に定評があって駿河や武蔵に出て、家康や秀忠に会ってから上野の芳賀郡茂木の庄に食い扶持をもらった。(後年、大阪の夏の陣で功労があったので、常陸の筑波と河内で1万石をもらった)
〇拓殖平右衛門正時(正俊の子)と服部三右衛門保久(保正の子)が、御家人にはじめてなった。大政所の留守番役の尾崎中務半範重が御家人になった。その子の武介正範は秀忠の大番士となった。
〇三宅宗右衛門康政(康貞の二男)は家康に叱られた。(元和4年に赦された)
〇次の人々が今年死去した。越後の溝口伯耆守秀勝(63歳)、間宮若狭綱信(40歳)、本間権三郎範安(33歳)、酒井市郎兵衛康治(62歳)、大政所の長臣、山田越中守好政(実際は多賀豊後守尚清の子)
〇伝えられているところでは、溝口秀勝の家督は、長男の主膳秀信が受け継ぎ5万石を持ち、そのころ秀忠に仕えていた二男伊豆守宣政は、今度本田に1万石と石井に新田2千石を配分された。宣政は後に上野の甘楽郡馬山と高瀬の二つの村2千石を新たにもらって、全部で1万4千石となった。(宣政は後に善勝となる)
〇山田好政の子、入左衛門利政は、寛永11年から御家人になったという。
〇聖護院門主興意と園城寺の長使に法令を下した。高野山日荒山座禅院と衆徒、鞍馬山などへも法令を下した。
慶長15年(1610)
正月大
朔日 駿府と江戸での年頭の行事は、例年通りだった。秀忠の名代として、大久保加賀守忠常が駿府を訪問し、家康に年賀の挨拶をした。
2日 豊臣秀頼の使いの伊藤掃部助治時が駿府を訪れ、家康に年賀の挨拶をした。
〇その夜、江戸城では恒例の謡の会が催された。席次は左が、松平安房守忠吉、松平土佐守(一作外記)忠實、本多伊勢守康俊、松平主殿頭忠利、右が最上駿河守家親、小笠原兵部少輔秀政、浅野弾正少弼長政、西郷出羽守忠員、牧野駿河守忠成であったという。
9日 家康は田中の城へ行き、14日まで放鷹をした。
15日 有馬義純が駿府を訪れ、昨年の冬の功労(*黒船撃沈)を賞せられた。(*『当代記』この項について記述なし)
19日 家康はもう一度田中に行き、数日間放鷹をした。
22日 有馬義純へ江戸の執事本多正信から(*黒船撃沈の功について)奉書が届いた。(*『当代記』この項について記述なし)
23日 内藤甚十郎忠重(25歳、伊賀守)を大猷公の家来にし、水野勘八郎重家、大草七兵衛高政、川村善次郎緒重久を補佐役にした。
〇自分(*高敦が)調べたところによれば、大猷公はその頃は竹千代と呼ばれて7歳だった。稚児小姓が松平長四郎信綱(12歳、後の伊豆守)、阿部小平治忠秋(9歳、後の豊後守)、永井十左衛門直定(7歳、後の豊前守)の3人だった。
〇この日、関東の執事、土井大炊頭利勝は、下総、佐倉の城で3万2千400石をもらった。(元は同じ下総の小美川の村の1万石だった)
24日 家康は田中から、遠州中泉へ移動した。
2月小
2日 中泉から田中へ戻り、その間に鶴を36羽、雁や鴨をすこし獲った。
慶長12年に中原の宿で紛失した金や銀の器具を盗んだ盗賊が判明した。
4日 家康は田中から駿府へ戻った。上の盗難で流されていた番士の落合長作と岡部藤十郎、合田勝七郎などが許されて、駿河へ復帰した。彼らは汚名を被っていたが、盗賊が判明して復権で来た。天命である。
20日 家康は、前から秀忠に三河の田原山(*蔵王山)でイノシシ狩りをするようにいっていたので、秀忠は長雨だったが、江戸を出発した。松平上総介忠輝など少数が同行した。
24日 秀忠が駿府へ着いた。
越後の国主、堀越後守忠俊(最初は吉五郎、15歳)の長臣の掘監物直清(最初は雅楽助)は、異母兄弟の弟丹後守直寄と去年の5月(*の節句に)下男らが菖蒲切のときに喧嘩になった。2人はかねがね仲の悪かったので監物が、忠俊が幼いのをいいことに、いろいろ悪いうわさを流して丹後守を追い出した。
丹後守は去年から江戸へ出て、監物の仕業を訴えていた。越後守忠俊の妻は本多美濃守忠政の娘で、母は岡崎三郎信康の娘だったが家康が養女にしていた。家康は慶長12年にこの縁談をまとめた。
実の舅の美濃守は現状を非常に心配し、家康の3老臣に相談して、監物と丹後守を仲直りさせようとしたが、丹後守直寄は同意せず、弟2人(一三と二作)と飯野内膳と共に駿府へ来て、ちょうど秀忠が来ていたので、しきりに自分の立場を理解するように訴えた。
25日 伊藤雁介が死去した。この人は優れた武将だった雁介の子である。しかし、妾の子の勘蔵が父の所領の証文を分捕って、父の遺言として家を継ぎたいと訴えた。家康は安藤帯刀直次に事情を調査させてみると、勘蔵の陰謀は明らかだったので、彼を追放し、三河の幡豆郡国友村の領地を雁介の長男、九左衛門に与えた。
閏2月大
2日 家康と秀忠は堀家の訴えを聴いた。執事や奉行たちがすべて同席した。主人の越後守忠俊と監物と直清が一列に並び、一方、丹後守直寄、同淡路守直重、同伊賀守利重、同主計直之(後の三左衛門、式部少輔)も一列に並んで対座し、互いの訴状を提出した。家康は障子の裏に座り、浅井局が傍に沿った。
元々この監物は出来が悪かった。一方、弟の丹後守は秀吉の家来となって任官し、関ヶ原の戦いでは非常に軍功を上げ、活発で勇壮なことで有名だった。それで皆は監物を嫌っていた。
越後守に訴状一箇条を読ませたところで、家康は障子をすこし開けさせ、「子供の忠俊に読ませるな、これは直清がするべきだ」と指示した。直寄は封をした箱と訴状を出して跪いて監物と3度対決した。
直寄は「監物は越後で下心があって、浄土宗と日蓮宗の僧徒に宗論をさせて勝負を決めずに、ただ浄土宗の僧徒14人を殺害した」といった。その時家康は非常に怒って障子を開けさせ、「その宗論を裁定した者は誰か」と述べた。監物は慌てふためいて「智者に聴かせて結論を出して罪とした」と答えた。
家康は「智者とはだけか? お前のような馬鹿者の考えで宗論の是非を決めるなど、自分を智者だと思っているのか?勝手に宗徒たちを殺したこと、そのことだけで十分、その他もろもろ悪事は論じるに及ばない。主人の忠俊もたわけ者で、国を治める器量はない」と憤慨し、越後の領地をすべて召し上げ、忠俊は奥州の岩城に流された。(鳥居左京亮忠政が引き取った)
一方、監物は出羽の最上山形へ流された。(出羽守盛義が引き取った)忠俊の祖父の左衛門督秀治と越後守秀政はともに40歳(*不惑)前に死去した。忠俊も子供で左遷され岩城に住んでいたが、結局28歳で早世した。彼の子孫は岩城に残って城主の内藤氏の長臣となった。
〇越後のあちたこちらの城は、信州衆の真田伊豆守信幸、小笠原兵部大輔秀政、石川源玄蕃頭康長が受け取った。
3日 松平上総介忠輝に越後と信州の川中島55万8千500石を与えた。その他、越後の柴田の城主溝口主膳秀信と村上の城主村上周防守頼勝を忠輝の家来となった。長臣の長澤の松平筑後守信直(最初は甚兵衛)は越後の糸魚川の城を守り、長澤の松平庄右衛門清直(16歳)は出羽守となって、老臣として越後の宮川の5千石をもらった。
山田隼人は信州村松の城を守り、花井遠江守は唐人八官の子であるが、忠輝の異父兄弟の姉婿なので2万石をもらって松代の城代になった。(川中島の地士の津田玄蕃頭などが派内の家来となった)
越後の長岡の掘美作守糧良は、今回の事件には関係なく、関ヶ原の戦功によって信州飯田の城をもらった。堀丹後守直寄は信州飯山の城へ移された。彼は元は坂戸の城で5万石を持っていたが、減らされて3万石となった。しかし彼は優秀だったのと関が原での活躍によって、次第に領地を増やしてもらって20万石までなった。
10日 秀忠は駿府を発って田中へ移った。
12日 家康の娘が4歳で早世した。(母は太田武庵の娘、法諱は一照院圓芳功心)、家康が非常に可愛がっていて、伊達政宗の長男虎千代へ嫁がせる約束ができていたので、母は非常に悲しみに暮れていた。家康はそれを憐れんで、鶴千代を彼女の子に準じて彼女の悲しみを慰めた。
14日 秀忠は三河の渥美郡田原の城へ着いた。伴の関東の衆は美しいいでたちを尽くしたという。
15日 雨で狩はなかった。
16日 秀忠は田原の大久保山で狩をした。三河と遠州の士卒や一般人は、全て勢子として山の数十里を囲んだ。
諸士は火砲を発して猪を追い出し撃ち殺した。その時の音は雷鳴の様であった。
本多中務大輔忠勝は桑名なら来てすぐに狩場へ合流して、「その昔、武田信玄が北条家の助けを得て大軍で味方が原で出たときでも、今ほどの勢いはなかった」といった。
17日 渥美郡蔵王山で狩を行った。阿部四郎五郎正之は鉄砲の名手で、今日鹿2頭、猪を2頭仕留めた。昨日と今日で鹿を247頭、猪22頭を獲った。
今日狩場で、永井信濃守尚政の組の関東生まれの阿部八十郎と、濃尾の生まれの中川八郎兵衛が喧嘩になった。井伊掃部頭直孝は今年21歳で秀忠の左方の勢子の頭として40間離れていたが、馬に鞭意を入れて駆けつけ2人の傍に飛び降り、2人の間に割って入って別れさせた。すると中川の下男が来て八十郎を斬り殺した。このような騒ぎがあったが、他の諸隊は規律を守って乱れなかった。八郎兵衛は2か所傷を負ったが、結局罰せられて殺された。
18日 勢子は休みをもらった。
19日 寶臺院の命日なので今日の狩はなかった。
20日 秀忠は日留和山で狩をした。鹿150頭、猪24頭を獲った。
21日 雨(*で狩はなかった)
22日 若見三秣山で狩をした。鹿を163頭、猪23頭を獲った。
23日 多坪の馬場で狩をした。鹿52頭、猪2頭を獲った。
花畠蕃頭の牧野内匠頭信成と阿部四郎五郎など譜代の家来が選ばれて、弓を以て馬に乗った。(信成は大猪を射殺した)それ以外は騎馬、徒歩の勢子だった。
秀忠は今夜から泉福寺が宿となった。
27日 秀忠は駿府へ戻った。
今日関が原で捕虜となった羽柴下総守勝雅が死去した。鳥居左京亮忠政は彼の婚なので、勝雅の子の壱岐守は鳥居について江戸に住んで、御家人になりたいと歎願した。遠慮して壱岐守を使わず、勘左衛門を名乗った。
〇今月、丹波の亀山城の補修を、近在の諸侯が段取りし、藤堂高虎が天守を作った。
武徳編年集成 巻57 終(2017.5.17.)
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