巻74 慶長19年12月5日~15日
慶長19年(1614)
12月小
5日 家康は、住吉の社へ白銀千枚を献じた。
家康は、横田甚右衛門尹松と間宮権左衛門伊治に、「自分が大阪城を攻めるのは、頼家が兵を挙げたためで仕方なくやっている。だから諸軍の雑兵や奴隷も火砲にあたって死傷することを憂慮している。掘を深く掘って前線の道を作り、一人も怪我をしないようにするように」と触れた。水軍の九鬼長門守守隆へは、「川口に番船を配置し、大阪城から出てくるものを討ち取るように」と指示した。
陸奥守政宗の使節の北岡志摩重永が本陣へ来て、大銃2挺(40文目筒と20文目筒)、石火矢2挺を借用した。榊原遠江守康勝は、大和川の辺りの陣を天王寺へ移動させた。
関ケ原の際に石田方に付いて、尾陽の犬山の城地を没収された石川備前守貞清入道宗林は、この頃は利殖業を営み京都に住んでいたが、家康に会いに来て胴着を献じた。今回の戦で彼が大阪城へ籠らなかったことを、家康は感心したという。
〇夕方、平野で秀忠は、旗奉行の三枝土佐昌吉を呼んで、明日陣を岡山へ移すので、旗を進めるようにと命じた。傍に太田善太夫がいたが、「旗を出すのは初めてなので重要なことだ。すぐではなく陣から何町も先で旗を出すべきで、先隊にもそのように連絡するべきだ。そうでなければ旗が動くのを見れば、諸隊は総攻撃の合図だと思って城へ攻めかかる可能性がある。秀忠は総攻撃をしないわけだから、旗奉行からそれを先隊へ連絡する許可をもらうべきである。迂闊に引き受けてあとで退却するようなことになれば、三枝の不注意となってしまうな」と嘲笑したという。
6日 家康は陣を茶磨山へ移した。ここで家来たちは皆、常時甲冑を身に着けた。家康は1人で馬に乗って城外の前線を視察した。秀忠は岡山へ移ったが、家康が巡視に出ると聞いて、大急ぎで馬で家康に合流して同行した。
天満の前線では、柵の外へ出て馬を止め城の上の様子を視た。家来が急いでそこへ駆けつけるのを見て城からは火砲が放たれたが、家康には弾はかすりもしなかった。家康の馬の前に出た歩兵は、弾丸に当たってすぐに死んだ。
信幾野堤の際に着いたとき、火砲が激しくて、堤の上に登ろうとする者はいなかった。家康は誰も見るものはいないなといって、すぐに堤の上へ登ってゆっくりと四方を眺めた。それは普通の人が考えるのと違って、家康は堤の上を通る人がいないので、城兵もそこを標的にしないので、かえって堤の上の方が危なくないと察したからである。伴の家来は落ちている弾丸を拾おうとしたので、大久保彦左衛門忠教は固く制止した。
前に武蔵の岩付(*槻)での城攻めでは、鳥居彦右衛門元忠が命じて弾丸を拾わせた。この時は、落ちた場所の弾丸が無いののみて弾が近くに落ちて届かなかったと敵が思もって銃口を上げたので、弾丸は味方の頭上を越えて当たらなかった。これは弾丸を拾ってよかった例である。このように弾丸の拾い方を工夫して、敵の照準を狂わせることについて各隊は熟練をしていた。
〇ある話では、家康が陸奥守政宗の陣所を訪れた時、政宗は巡視中で留守だった。長臣が呼んでくるというと、家康は呼んでくる必要はない。戦に専念すればよいと答えたという。
秀忠が天王寺口の竹の束の陰から城を伺った時、荒川又六忠吉は、ここは矢筋で危険だとのべたところ、秀忠は左右を見て「若いお前に何がわかるか。矢筋がどうした、怖がることがあるのか」といった。本多佐渡守は、そこは通り道なので歩卒が困るので、馬をこちらの方へと、舎人に馬を引かせ、秀忠の馬に沿いながら「この辺りはいい田や畑なので直轄地にできるな」と従士と冗談をいいながら、秀忠を銃弾の来ないところに導いたという。
〇大阪城の北北東にある長良(*柄)村の東、毛馬村との間の長良(+柄)川に、杭を沢山打ち込こみ大きな石や土嚢を積んで水を堰き止めて、北北西の尼崎方面へ水を回すと、天満の東の掘が干上がるので、仙波と中の島から歩いて掘りを越えて攻めようと家康は熟考して、毛利長門守と福島豊後守の人夫1万5千、角倉與一玄之の船100艘に土石を運んで、堤防を作るように伊奈筑後守に命じさせた。
〇岡山では、秀忠が阿部四郎五郎正之を呼んで、「上杉景勝の信幾野の陣と堀尾山城守の駐屯地が離れているので、城兵が青屋口から出て、大和川の堤に沿って岡山の後ろへまわって夜にこちらへ攻めてくるという噂は本当とは思えない。しかし、本多出雲守の組を率いて上杉と堀尾の間に陣を敷いて、お前もそこへ行って城内の様子を窺い、怪しいことがあればすぐに連絡するように、ただし手柄を上げようと危険な真似はしないように、自分のいうように奇兵を組織して、城兵が出てくると粉砕するように」と密かに命じた。
〇今日、天王寺の西冑山の下にある枯れ草が茂っている池に、無数の蛙が現れ、南北に分かれて交尾したが北の方の蛙は全て死んだ。人々は怪しんで年末に蛙が出てくることなどない。北の蛙が負けたのは城方が負ける予兆だろうと、毎日話したという。
〇ある話として、阿部正之は、先月5日、加賀、越前、彦根勢が受け持っている前線を視察したり、榊原の陣営に決まり事を伝えたりしていたが、先発隊の竹束の外を通った。それを見て安藤対馬守は、「意味のない勇気だ。戦では勇気より用心だという諺があるのを知らんのか。いつでも竹束の内側を通れ」といった。正之は「先発隊の兵がそこを通れと教えた」というと、安藤は「旗本から来ている先発隊のせいにするのか、先鋒は協力すべきもので、そのようなことをいうと互いに争いを生じてまずい結果になる。十分注意して馬鹿な勇気を発揮してはならん」と述べたという。
7日 家康は堺の湊に来たオランダ人を呼んで、石火矢を大阪城へ撃たした。
8日 京都で作らせていた鉄の盾が到着した。(*『当代記』にもある)
家康は、敵が大阪城の前の出口村の堤を切って、淀川に水を入れたので、寄せ手の往来が不自由になっているので、前に美濃衆だった遠藤、竹中、遠山、妻木、岡田、稲葉内匠頭正成、同右近方通、平岡牛右衛門重常、島高木黨の人夫に、福島備後守の奴隷を加えて、その堤を修復し、また、この夏に洪水が起きて、敗退させられた森口の堤にも、諸将の人夫で補修するようにと伊奈筑後守忠政に命じた。
関西と奥羽の外様の諸侯に、銀100貫ずつ与えた。藤堂は糧米2万石を献じたので、銀200貫をもらった。
松平周防守と共に陣を敷いていた市橋下総守長勝は、天満川の水深を調べるために、夜中に従者を川に入れて深さを測らせ、大阪城の掘りの際に印を立てさせた。そこで軍監の加賀爪民部少輔直澄、服部権太夫政光、島彌左衛門が家康に報告したので、市橋は褒められた。
9日 軍監の瀧川豊前守忠往と山城宮内少輔忠久が家康の訪れ、6日から始めた長柄村の堤を高さ1丈8尺、巾12間にする作業が終わり、川の水を北に回して尼崎へ流したので、天満川は非常に枯れてきた。しかし、東の大和川が流れ込んでくるので、信幾野の未務田の辺りで大和川を堰き止めたいと申し出た。
家康は中井大和を呼んで酒をふるまい、彼がべろべろになった頃に家康は、「その辺の美味い魚を獲ってみんなに食べさせたいが、網ではなかなかうまく行かんがどうしたらいいかな」と尋ねた。大和は「大和川には魚が沢山いる。人夫が1万おれば、堤を築いて獲ってしまえる」と答えた。家康はそれ以上は黙っていたが、彼が退席するときに呼び止めて、毛利長門守秀就と福島備後守正勝の人夫1万5千人を付けるので、今福の未務田の辺りで大和川の流れを堰き止め、網で魚を獲るようにと命じた。
そこで、彼はその人たちに竹を編んで石を入れ、または土俵を集めて、鳥飼村の川が曲がっているあたり堰を築いた。そのため大阪城の掘りに引いていた天満川、東掘、久寶寺橋筋は全て干潟となった。そのため総攻撃の際には、総曲輪の出っ張っているところは、すぐに落とせる状態になった。
〇大阪城内の青木民部少輔一重は、本多上野守に手紙を送った。上野守はその手紙を家康に見せると、家康は永井右近太夫直勝と青木次郎右衛門可重を呼んで雑談した。それから「各隊は今夜酉の刻(午後6時ごろ)、亥の刻(午後10時ごろ)および寅の刻(翌朝午前4時ごろ)の3回、城へ向かって一斉に砲撃して城兵を煽れ、そして明日も明後日も同時刻に同じことをして、敵を疲れさせるように」と命じた。諸軍はその通り実行すると、城兵は総攻撃が始まったと考えて本気で応戦を開始して、激しく銃を発したり掘に松明を投げ込んだりして、外郭へ二の丸、三の丸から援兵を出した。すると外郭にいた商人たちが大慌てで三の丸へ逃げ込もうとして、橋に殺到し、押し合って掘へ500人ほどが落ちた。
〇ある話では、今夜藤堂の隊は勝鬨を上げて砲撃を始めた。しかし家康は好まず、砲撃の回数が多すぎると連絡したという。
10日 京都の商人が再び鉛千斤を家康に献じた。
本多正純は密かに城内へ後藤庄三郎を行かせ、織田有楽と大野修理亮へ和融を申し出ると、2人は大いに喜んで、有楽の家来の村田吉蔵と大野の家来の米村権右衛門を今夜上野介の陣所に送って、その件について相談させた。そして今夜城からは勝鬨を上げて銃を一斉に発し、寄せ手に合図したという。寄せ手も昨夜同様全軍が火砲を一斉に発した。
〇家康は近臣の中に城方へ通じた者がいるという噂を聞いて、急に席を立って次の間に行き、そこに控えていた者たちの顔をしげしげと見た。もし怪しい者がいたら驚いて顔に出るだろうという訳だろう。また岡山の陣でも同様な話が流れたので、秀忠は刀を抜いて「裏切り者がいるか」と近臣の顔色を窺ったという。
〇ある夜、敵のスパイが茶磨山の陣に紛れているのではという噂が流れた。その時家康は扉を開けて庭の四隅を眺め大声で出し「誰か我を知らない者がいるか」と叫んだ。後で近臣には「仮にスパイが忍び込んでいても、自分の声を聴くと覗けないだろう」といった。彼の狙いは非常に独創的である。
〇家康は諸軍へ命じて、「籠城している士卒で投降したい者は、火砲を撃たずに名前を書いた矢文を放ってくるように、貴賤を問わず恩賞を与える」と、城内へ矢文を射させたという。
〇秀忠は総攻撃をしようと、3度家康に尋ねたが、家康は「自分は19回大きな戦いを経験したが、いずれも考えがあってのことである。よく時宜を見て時の来るのを待つべきである」と許可しなかった。
以前秀吉はこの城を建てから諸将を集め、この城がどれほどの名城かを自慢した後「この城を攻めるにはどうしたらよいか」と尋ねた。誰も黙って口を開かなかった。秀吉は「時間をかけて思いのままに建設した城なので、どんなに力ずくで攻めても落とすのは無理だ。相当の策略が落とすには要る」といった。彼がこんなことをいったのは、もし秀頼が生まれなかった時には、家康がすでに5州を支配し、どう見ても結局全国を支配するだろうと見通していたか、それともこの言葉を世間に流して、秀吉の家来たちに思い知らせ、豊臣の嗣子の代にこの城が攻められても、寄せ手が和融を考えさせるために、前もってこういったのだろう。家康が総攻撃を止めたのは、このようなことの為だろう。
その後の小田原攻めでは、秀吉は策略による和融で北条を降参させ、北条兄弟を殺してしまった。秀吉の生まれながらの能力は凡人には窺い知れなかったが、家康の頭は、秀吉より遥かに良くて、この城を抜くには秀吉の言葉を利用して、賢く落とそうという工夫だった。
大野修理亮は美男で凛々しい血気盛んな若者で、秀頼は元老として重用したが、淀殿はぞっこん惚れこんで淫行を重ね、しきりに大野を忠臣の家来だとして、ついに片桐市正を追い落としたので、今度の戦いが起きてしまった。しかし、大阪城はもともと海や川沼を控えた天然の城地で、城郭も全国一の堅固な要害である。しかし、この戦いでは、広い外郭の周囲の長さは3里で、西北にある天満川、東堀川には塁を築かれ、信幾野や今福の淵では、長良(柄)川と大和川が堰き止められたので、天満の東掘などが全て干潟になった。
また北側の池田忠継から兄の忠隆の高麗橋の前線には、井櫓が組まれ、干潟となった川筋には城へ向かって少しずつ竹を敷き詰め、乾いた草を投げ入れ、その上には大きな板や竹を敷きならべ川の中に道を付けようと昼夜兼行で作業が行われ、その内大きな道ができるような有様だった。堀江筋からは西国の諸将は船で、そのための草や土嚢を頻繁に運び込んだ。
南の方では城郭が平地にあるので、加賀、越前、彦根の3人の武将の隊はすでに堀際まで前進していた。そして掘際から3、40間の所の築山を高くして、そこに井櫓を立て城郭の中を見透かす様にした。
城内では、格子や幕の目隠しを張って防護した。その上、家康を裏切って秀頼に付く者もさっぱりなく、段々意気が上がらなくなっていた。そこに本多上野介と後藤庄三郎が和議を申し込んだので、彼らはかつて秀吉に騙されて北条が和融してすぐに滅ぼされた前車の轍を顧みず、有楽修理亮はその家来を使いとして和融を申し出た。
家康は今度籠城した士卒の罪は問わないので、大阪城から出て城を引き渡す様にといって使いを返した。というのもこの城の総構は破れても、どうしても破れないところが2,3カ所あるのを知っていたからである。
使い番の渡邊図書宗綱は、堀尾山城守の持ち場へ行って「どの程度まで城へ迫っているか」と尋ねた。堀尾は若いからいきなり「どれほどかはおれにはわからないので、おまえが測れ」と答えた。宗綱はすぐに席を立って前線に立てている竹を抜いて、長さ6尺2寸5分に切り、弾丸が雨のように降ってくる中、平然と掘りの際までの距離を自分で測って帰った。さすが三河の鬼半蔵の一族だと皆は感心した。横田甚右衛門は「堀尾は若いといっても、幕府の軍監にあんなことをいうとはけしからん、お前は彼を捕えて注意しないのは残念なことだ」といった。
横田が仙波へ向かう時、蜂須賀の士大将の中村右近は、ただ一人で弾丸が激しく降る場所に立って、「使い番にと一緒に城の上を監察したらどうか」といった。甚右衛門は笑いながら「見に行くには及ばない。ここから調べる」といって帰った。そして「右近は元気や奴だ」と非難した。
南方の眞田丸黒門筋の櫓からは、寄せ手の前線と築山の間へ大銃を発して、そこを行き来する士卒を撃ち殺した。しかし、井伊直孝の隊には父の直政の時から持っている柿色の木綿の幕があって、それを幾重にも張って見えなくしたので、死傷者が出ることは稀になった。
榊原遠江守の前線では、竹の束が1、2間分が大銃で破壊された。彼の家来の鳥居半六が1人で出て行ってそれを修理したので、敵も味方も感心した。
浅野但馬守長蔵の長臣、上田主水正重安は豪傑で、前線の大きな竹の上に寝そべって指図をしていた。城からの弾丸が激しくて傍の者が2人怪我を負い、自分の兜も吹っ飛んだが、全然動じないでがんばるので、その隊では士卒が多数怪我を被った。
11日 黒田筑前守が鉛3千斤を献上した。
家康は間宮権左衛門伊治と島田清左衛門直時に、銀山の山師を雇って、大阪城の地形を吟味させ、城へトンネルを掘らせる様に諸将に命じさせた。また中井大和には多数の梯子を造らせた。これは城の石垣に掛けて乗り込むための物ではあるが、大阪城のようなところでは、少々梯子をかけたところでどうにもならないので、むしろその用意をしているのを見せて、城の中の意気を裂こうという家康のアイデアである。
〇家康の陣形では、秀吉に世話になった諸将は今叛意がないように見えても用心として、天満の諸将の後ろに控えさせ、本多美濃守の伊勢の勢力で、天満の諸侯の陣の後ろへ配置し、松平下総守の美濃組を仙波の外様組の後ろへ配置して、彼らが全軍が築山から城へ向かって大砲を撃つことを仕切らせた。城へ対抗する砦を2カ所築いたので、鴫野の景勝の後ろの砦の、本丸には松平丹波守、二の丸には牧野駿河守忠成、今宮の両京極の陣の後ろの砦の本丸には松平安房守忠吉、二の丸には新庄右近直好が配置された。
12日 家康と秀忠は各前線を巡視した。(*『当代記』と一致)
天満では前線より前へ出ると、城から激しく銃撃があり本多上野介が止めても、家康は応じなかった。
永井右近太夫と小栗又一、島彌左衛門が馬を並べていたので、城兵も家康が巡視していると察して大砲を撃とうとした。後藤又兵衛は「城からこれほど狙撃しているのもかまわず、柵の外に出てくるとは鬼神でもないとできない。神武天皇の時代から名将には弾はあたらないといういわれがあるの、で決して撃ってはならない」と止めた。
2人は掘の傍まで行って、悠然と戻ったが、そのとき島彌左衛門の鎧の裾に弾丸が当たったという。敵はその後大砲を発した。その玉は茶磨山へ献じられた。その目方は3貫から4貫あり数は200個ほどだった。
家康は眞田丸へは眞田隠岐信尹を2度派遣して、左衛門幸村へ寝返るように勧めた。幸長は今回秀頼から呼ばれて隊長を命じられた恩は捨てられないといって、勧めに応じなかった。しかし、眞田は隠岐守の密使だという噂が城に流れ、今日後藤が家康を撃つのを止めたこともあって、その噂が拡大し、寄合の諸士は真田と後藤が家康に内通しているのではという疑いを持った。
〇この日、城中から織田有楽と大野修理亮が茶磨山へ手紙を送って和融を申し入れた。
島津陸奥守家久は薩摩を出帆したが、風波が収まらず、2日ほどで船を止め日和を待ったという。先に肥後の加藤忠廣、筑後の田中忠政、豊前の細川忠興は島津の船がくれば一緒に出帆するようにと家康に命じられていたので、彼らもまだ大阪には着いていなかった。(今夜も寄せ手は一斉に銃を発して時の声を上げた)
13日 中井大和は、城攻めの為の大きな梯子を全部作り終えた。家康は各将に50本ずつ配った。
14日 先日大変な暴風豪雨の中、阿茶の局は京都へ行って京極高次の後室の常光院へ「大阪に来て東西の和平を取り仕切るように」という家康の命を届けた。そこで常光院は了解して早速家康の許に来るという返事を、阿茶の局は今日戻って家康に伝えた。この常光院は、浅井備前守長政の娘で淀殿の姉である。
〇家康は堺政所の柴山小兵衛定好の職を免じた。
〇城の中では諸将が秀頼の前に全員集合して、和融の是非を論じあった。秀頼の家来たちは和融を進言し、雇われ浪客は皆万一を危ぶんで反対した。
後藤又兵衛基次は、「籠城を始めて以来今になっても、大小名で味方に付く者は出てこない。城には糧米や弾薬はあるが限りがある。城内には敵に通じる怪しいものもいる。
例えば南方の織田雲生寺の前線では、火砲を撃たなかったので、これは殺すべきだ。その理由は寄せ手の前線と彼の持ち場は濠の傍で、この4日、加賀。越前、彦根勢が攻めてきたときに、城の中ではみんなで力を合わせ、女子供まで石を運んで防御したにもかかわらず、雲生寺は秀頼の親戚で一族も多いが防戦すべきところを風邪だといって寝ていて、女と酒宴をしていた。
その上、白吹貫の馬印も再三色を変えている。これは寄せ手に通じている証拠だ。雲生寺でさえこんな状態だから、籠城が長くなると人の心がどうなるかはわからない。ここは家康が和平を呼び掛けて来たのを幸いとして時を待った方がよいのでは」と進言した。有楽修理亮は、中でも籠城に飽きたと和睦を進言した。
しかし秀頼は応じず、「戦いを治めて時を待てというのは片桐が勧めたことだ。これを受け入れずに戦いを起こした。もともと運が開けるなど期待してない。片桐が去ったとなれば、関東は難題を吹っかけてくるのは避けがたい。変に生き延びて恥を後世に残すぐらいなら潔くこの城で死ぬ」といった。
有楽修理亮は、奥の淀君に「家康は70歳になって死ぬのも近いので、彼が死んでから兵を挙げて一気に関東を滅ぼすのが良い」と勧めた。淀殿は女性なので元気も失せて、いろいろ言葉を尽くし秀頼を諫めたので、とうとう和融することに決まった。(*『当代記』では、この辺りの記述は欠けている)
15日 秀頼は大阪城の総濠を埋めて城壁を壊すことに応じた。そして「籠城している士卒や浪人たちの罪は問わずに命を救い、彼らに給料を出すための領地を増やしてほしい」と申し出た。
家康は怒って、「大阪城へ集まった浪人たちが、自分に何をしてくれたから援助せよというのか?来年は秀頼にとって吉年で祝いをすると、占いに出ているという噂が流れている。占い師の言葉に従って和融だといって寄せ手をとどめ、時間稼ぎをして来春を待つという魂胆を、自分は察して怒っているぞ、と城内へ伝えるように」と連絡した。
夕方には城から両使いが来て、阿波、讃岐、伊予を、摂津、河内、和泉の三州に取り換えたいとの要請があった。家康は認めず、安房と上総を換地とすると命じた。両使いが城へ帰って報告すると、秀頼は関東へは移りたくなかったので、和平交渉がしばらく決裂したという。
〇城では、高虎が家康にべったりなのを憎んで、「高虎が秀頼に内通している」と城から叫んだり、矢文を寄せ手に送ったりしたが、各隊はそれを高虎へ見せた。そのため高虎は秀頼を恨んで、11日に家康の許可を得てから、丹波の山師を呼び寄せて、今日15日から前線の濠の下にトンネルを掘って、城壁を破ろうとした。加賀、越前、彦根の3家も、場所を選んで穴を掘って城へ入ることに知恵を絞った。
〇別の説では、信玄の時代に敵の城にトンネンルを掘って崩したということがあるので、甲斐の山師を呼んだ、というのは大間違いである。伝えられている話では、藤堂の前線からはるか離れたところから、丹波の山師はトンネルを掘りはじめ、巾2間、高さ1間の穴を掘って切張をいれ、3尺おきに掛灯を置いた。そのため地中でも暗くなかった。一方、城内でも、毛利家の浪人は土の色が変わるのに気づき、トンネルができれば防ぐ用意が出来ていた。そして高虎が呼んできた山師が、西から巾1間ほど城内にトンネルができた時、そこへ糞尿を流し込んだり、ごみを投げ込んだりした。そうして、せっかくトンネンルが完成したものの、その時には和融が成立したという。
〇この日、御家人の間宮新左衛門直之が、陣中で死去した。享年48歳という。
武徳編年集成 巻74(2017.6.11.)
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