巻75 慶長19年12月16日~19日

慶長19年(1614年)

12月小第75.jpg

16日 中井大和が前に建設を命じられた、石火矢(*大砲)の砲台が完成した。

松平右衛門太夫正綱を監使として、幕下の砲術の妙手の井上外記正継、稲富宮内、牧野清兵衛正成に命じて、南の天王寺筋の寄せ手の越前と彦根の前線および、備前島の菅沼織部正定芳の前線から、城へ向かって大銃を撃って櫓の塀を破壊した。

〇蜂須賀阿波守の本陣は、本町橋の虎の口から離れた西本願寺にあった。中村右近は、橋の南方1町ほどの堀際から下がって空堀を掘り、柵を沢山立てたのを淡路橋の桑山の櫓から塙團右衛門直之が10日余り様子を眺めていて、今夜夜討ちしようとした。

1番には直之の組の手勢10人と雑卒20人、2番は首将大野主馬の組の10人、3番は長岡監物貞安の組の手勢10人と軽率20人、それに砲卒の長の若原勘太夫牧牛把の組と総勢150人が白手ぬぐいで冑の上に鉢巻をし、白い布を鎧に結び付けて、合言葉は旄(*もう)と問われれば、旄と答えることに決め、深夜密かに門を忍び出た。

中村の軽率が寄せ手の空堀や仮橋の上で張り番をしていたが、寝込んでしまった。彼らは張り番たちを斬り捨て、簀子を切って、竹束の傍に寝ていた雑兵30人も斬り殺した。

また小屋の戸を切り落とすと、ここ数日の疲れがあって蜂須賀が寝ていた。灯りがないので向ってくる者はいなかった。士大将の中村右近は左の手に冑、右手に十文字の槍を以て小屋の外へ出ると、主馬の組の二宮と山川が出て来て、一番二番と呼ぶと團右衛門と従軍が突撃してきた。彼は右手の兜をかぶる暇がなく投げ捨ててやり合った。しかし、小屋の傍の水たまりにはまると、敵の3人が来て取り押さえた。

味方も少し駆けつけ、敵の石村六太夫と組み合ったが、石村が声を出すと梶原太郎兵衛が来て蜂須賀の兵を撃ち取った。阿波の稲田修理宗祐や岩田七左衛門と長谷川小左衛門が槍で戦い、修理は敵3人を突き、敵の槍を握って手のひらを負傷した。その子の九郎兵衛は、16歳だったが城兵を組み殺した。西宮與兵衛や横井十郎兵衛などは、奮戦して敵6人を討ち取った。また、中村右近の首も敵に渡さず、敵はついに撤退した。稲田父子と岩田などは、橋際まで追いかけたが、張り番の御宿越前能時が戸を閉めた。

今晩城兵の上條又八、潮田左近、田屋右馬助、鈴木六郎右衛門、畑角太夫、牧野潮太、太田村輪蔵院は、槍で対戦したり首を取ったりした。蜂須賀方では20人が戦死し、夜討ちの大将の塙團右衛門は、討ち取られた者の名前を書いた札を立て、城へ引き返した。また、長岡監物貞安(本姓は米田)は自分の名前を朱の漆で書いた矢を多数放ったので有名になった。家康はこの夜討ちの話を聞いて、これは「こちらが怠けていたからだ」と述べた。

17日 勅使の廣橋前大納言兼勝と西三条前大納言實條が住吉へ来た。そして「もう年が暮れようとしている。寒い時期なので、老体の家康は長い戦いでお疲れだろう」と天皇が心配している。はやく諸将に軍令を出して、京都へ帰るのがいいのでは」と述べた。また、日野輝資入道唯心金地院傳長老には、密かに「家康が戦意を緩めて秀頼と和解することが無い場合は、天皇の名で秀頼に和解を命じるのはどうか」と伝えた。これを家康は聞いて「どんな冬でも鎧兜を着て出かけて戦うのは武士の仕事だから、何も心配していただくようなことではない。自分なんかのために気遣うことなどない。また、和議を命令しても秀頼がうんといわなければ、天皇の威信に傷がつきますよ」と返事した。

小栗又一忠政を蜂須賀の陣へ派遣して、昨夜の夜討ちのことを尋ねさせた。彼は帰ってきて「敵が撃ち入ったのは16間余りだ」と報告した。家康は「廻り撃か」と尋ねた。又一は「よくわからない」といった。家康は黙っていて「昨夜の首将は塙直之にちがいない。城門の見張りは越前にいた御宿だろう」といった。又一は「蜂須賀の陣所に昨夜立札が立てられ、夜討ちの大将は塙團右衛門だと書いてあった。観た者が皆感心した」と述べた。

戦国の世では、俗語に「敵陣に夜討ち浅く入るのを、下る」といって「深くいるのを、上る」という。敵の陣の前から撃って、後ろへ抜けるか、左から撃って右に出るかを「廻り撃」という。また、城門にいて敵が引き取る勢力と混じってくるのを調べたり、敵が追って来てなだれ込むのを防いだりする役を「張り」という。

さて、ここで出た御宿正倫は、豊前の産で駿河の葛山監物友網入道の嗣子となる。しかし友網は今川氏眞を叛いて武田信玄の家来となり、天正10年勝頼が滅びた時から北条家に仕え、御宿勘兵衛と名乗って何度も戦いで活躍した。後に越前黄門秀康の家臣となったが、少将忠直を恨むことがあって浪人となった。今度秀頼が戦いを起こしたのを喜んで、大阪へ駆けつけ大野治房の隊に所属していた。そして戦いが終わると越前をもらうことになっていた凄い武将である。

家康と秀忠は、蜂須賀の家来の稲田父子などの功労を褒め、秀忠は手紙を蜂須賀逢庵へ送って不意の夜討ちによく戦って負けなかったことを評価した。

18日 秀頼は毎月この日、城内の豊国社を参詣した。秀吉の命日だからである。片桐市正はよくこれを知っているので、家来の砲術の名手の田付兵庫具定を呼んで、備前島の陣から石火矢を撃たせた。凄い雷のような音が響き渡って、天守の二層目命中した。ちょうど淀殿が寄せ手の様子をみるために天守に来ていたところで、弾丸が柱で炸裂し、そこにいた侍女が2人が粉々になって死んだ。淀殿は仰天して急いで天守から降りて、有楽修理亮を呼んで、「自分は信長の外姪で浅井長政の娘だ。だから戦いで討ち死にするのは望むところだけれど、今城外を見ると、稲や竹のように大軍がいる、こちらはわずかだ。秀頼が天運を開くことはあり得ない。おまえは早くうまく謀って、和平を整えるように」といったという。

〇堀正意は「最初に片桐が大阪を去ったのは、秀頼に対する忠誠が受け入れられなかっただけではない。讒言が止まなかったためである。そうだとすれば山林に隠れて、君に仕えていればよかったのだ。しかし茨木の城に籠って救いを京都に求め、防戦に努め、徳川について石火矢を城へ撃ち込んで秀頼を殺そうとするとは、我慢できない、恐るべきことである」といった。はたして翌年秀頼が自害してまもなく市正は狂死し、一族も次々と死んで家は滅びてしまった。現在ある片桐家は主膳正貞隆の子孫である。

〇この日、家康は京極忠高の母の常光院に、「秀頼は若くて何もわからないまま、悪い取り巻きの勧めで戦いを始めてしまった。自分は戦いを避けようとは思わないが、秀忠は勇ましいので、多数の穴掘りを集めて濠が深くても深い穴を掘って、厚い板の箱を順にはめ込んで道とし、城の中まで通す落とす奇策を考え、諸将に命じて大工を集めて、樋や梯を作らせて多門を崩し、一挙に城内へ攻め入って城を粉砕せよと決めている。

自分はため息をついて、いろいろ止めるようにいっているが秀忠はいうことを聴かない。秀頼が速く謝って、本当に和議をすれば秀忠も分って攻めるのを止めるだろう。こういうときは、よく考えて過去にこだわらず、太平の世を築くために淀殿を説得するように」と阿茶の局を通じて命じた。

そして樋や梯などの攻具を用意して、数千人の人を雇って昼夜戦いの準備をしている様子を常光院に見せ、それから城内へ送り込んだ。実に頭のいい方法である。

彼女は淀殿に面会してそのことを話し、家康の意向を伝えた。このところ嬬子(*しゅす、こども)のことがせつなく、感情的になっていて秀頼が滅びることを嘆いていたので、家康の気持ちを幸いと秀頼に和議を勧めた。

眞田や後藤も落城はしたくなかったが、寄せ手は兵糧の供給に困らないので、撤退はするはずはなく、城内の形勢も測り難いので、とりあえずは和平に応じて、来年和泉の城から落とし始めて京都に攻め込み徳川勢を打ち壊せると見込んだうえで、暫定的に和平に応じた。これは家康の天下統一の策略である。家康は「大阪城の扱いは、小田原攻めでの和平をモデルとする。秀吉の言葉に習って城を落とす。秀吉は自分の師匠だ」と後日語ったという。

〇伝えられるところでは、家康は駿河を立つときに阿茶の局を連れて出た。人はどうしてだろうと怪しんだが、これは和平を整えるためだったことが今になってわかった。

〇秀忠は、毎日前線を巡視して、総攻撃の為に掘をすべて埋め戻し道具も準備しているところで、家康が和平を進めているので、土井大炊頭に「今回諸州から家来を数十万招集しているところなのに、穏便に和平交渉をするのは困る。すぐに総攻撃をして城を落とすべきである」と伝えた。

家康は「秀忠は元気だなあ。怒るのも無理もない。ただ昔から弱い相手とみて侮るな、戦わないで勝つのが良い将だというのがある。自分には考えることがあるので、自分に従え」と述べた。秀忠は「家康は文武ともに備えた名将だけれど、どうして今度はこのように甘いのだろう」といった。本多佐渡守は「秀忠の不満も尤もだけれど、家康のいう通りにした方がよい」と諫めた。

〇この日仁和寺堤や春日井堤などが完成したことを安藤対馬守が家康に報告すると、「諸家の雑卒はよくやってくれた」という言葉をもらった。

〇大番士の山田五郎兵衛直時は、伯耆の地を里見安房守に引き渡し、本使いの稲垣重辰は帰途に就いた。山田は伯耆の松箇崎に留まって、石見から大阪の陣へ糧米を運んだという。(この五郎兵衛は後に父の後役の畿内播州などの代官を務めた。里見は元和2年倉吉の地も没収され、伯耆の田中でわずか100人扶ちを宛がわて終わった)

19日 大阪城から常光院が帰り、秀頼が和平に応じるだろうと報告した。

家康は蜂須賀阿波守を茶磨山に呼んで、「お前の長男の千熊丸も、そろそろ帯を解く時期だろう、自分を親だと思って長生きするように、と帯を解いて至鎮に手渡した。そしてこれを持って早速国許へもって帰るように」と述べて退席した後、使いの者に美服2着、黄金200両を千熊丸に与えた。(その時2歳)

〇遠江参議中将頼宣の外祖父、浪人の柾木左近頼忠入道環齋が落馬したと、家康は聞いた。そこですぐに片山輿庵法印に命じて摩沙圓(*?)を与えた。

20日 常光院と阿茶の局は城内へ入り、いろいろ話して「秀頼が元のように摂津、河内、和泉の三州を領地とし、大阪城に住む城兵を全て助命するのであれば、誓約書にサインし、城のすべての濠を埋めて戦いを治め、世の中を平時に戻すことを秀頼と淀殿に認めさせた。そして、秀頼は常光院と阿茶の局に二位局と饗庭局を添えて、茶磨山に派遣し、秀頼は時服3着、領段子30段を送った。

その後、後藤庄三郎と本多正純の家来の寺田将監が城へ入って、有楽と修理亮の質子を要求し、有楽は三男の武蔵守尚長(25歳、大和守)、大野の嫡子信濃守治徳(27歳)を渡した。この時修理亮は末子渡そうとしたが、後藤光次(*庄三郎?)は怒って、子供は受け取らず敢えて信濃守を出させた。そうして将監と庄三郎は質を連れて茶磨山に戻って報告した。家康は子供ではなく治徳を受け取ったことを感心し、すぐに武蔵守尚長を本多正純に、信濃守治徳を小出信濃守吉英に預けた。

〇堀正意は「もともと秀頼に和睦の意思はなかった。母は長く籠城していても味方に転じる者が1人も出てこないので不安になって不機嫌になっているときに、大砲の弾が天守に命中して侍女が砕け死んだので震え上がったのは、女性としては尤ものことである。有楽は秀頼の親戚として生を貪っている。修理亮兄弟は戦闘に疎く、家康と和平して秀頼の再興を待つという相手の思うつぼに落ちている。実に愚かなことである。そもそも、濠を埋めるのは城にとっては致命的な事であるのを、軽々しく受け入れている上に、そればかりか総掘を埋める約束までしている。家康は総掘といいながら、本丸以外の二の丸や三の丸の濠や、石垣などすべてを破壊したのには驚いた。

次に、摂津、河内、和泉の三州の秀頼の領地や近くにある家来たちの領地はすでに戦場となって、米も尽き人も逃げてしまい、野は荒れ果てて草もなくなっている。家もなくなっている。また、遠方の家来は全て敵にまわり、一体どうしてこれから過ごすというのか?こんなことは和解をする前から分っていることなのに無視した。お互いに兵を引いた後、家来たちや浪人たちに金を払わなければならないが、これにも限りがあり、戦いに参加した甲斐もない状態をどう償うつもりか?

そして、城下の人々に対しては、グローバルに恥をかかせたし、秀頼の汚名もこれ以上のことはないだろう。家康は全国から兵を動員して城を包囲し、濠を埋めもどしたので、兵を気楽に引くことができるので、濠を埋めるということ一つが、どれほど重要な事かはわかりきったことである。それに気づかないとは、これは「雌鶏が鳴いて馬鹿な家臣が取り仕切ったためだ」といえるのではあるが、むしろ秀吉の残忍暴虐の残り香かもしれない」といった。(*掘杏庵:当時活躍していた儒学者で医者、藤原惺窩の弟子)

〇この日 城からの銃撃は止まり、互いの交戦は止んだ。眞田左衛門佐幸村は秀頼に「日柄のいい時に敵味方は武装を解いて万歳をするのが、今夜は敵が油断する隙をついて攻撃すると勝利すること間違いない。そこで家康と秀忠を捕えられる」と進言した。

淀殿は「今日和議を約束してすぐに態度を変えていいのか」と許さなかった。眞田はもう一度これを提案したが、淀殿と有楽がなんとか制止させた。しかし、眞田は忍びを派遣して茶磨山と岡山を調べさせると、相手もそれをあらかじめ警戒して、三軍の備えを厳重にしているので、夜に城兵が襲っても粉々にされるだろうという話を聞いて、眞田もいよいよ豊臣も2代で滅んでしまう時が来たと嘆いた。

この時は故人だが、死後悪事が露見した大久保石見守(*長安)の家来の鈴木左馬介は、当時浪人で安藤帯刀の隊にいた。この人は、元は近江の大津あたりを支配していたころからの大金持ちで、古田織部正の婿である。

古田は大阪城内と通じていて、また大野主馬が鈴木と昔からの友人だったので、大野は佐馬介の陣所に来て「今東西の和平が整ったように見えるが、実はこれはこちらの計略だ。徳川が駿河と江戸へ兵を戻した後に全国の浪人を一人残らず集めて面倒を見てほしい。そして京都を占領しよう。そうすれば秀吉に世話になった大小名が皆集まってくる。どうしてかというと、徳川の大軍をもって攻撃しても、やっと外郭を破ったが総構は抜けなかった。この秀頼の名誉を誰もが感激しているだろう。徳川が奥州を向いている間にこれをやってしまおう。ここでいい士をリクルートしたい。今月4日に眞田丸を加賀勢が抜こうとしたが、あのときに先登した浪人の小幡勘兵衛を招きたいので、よろしくやってくれ」と話した。佐馬介は「幸い小幡とは知り合いだから呼び入れよう」と答えたので、主馬は帰った。

しかし、備えの頭の安藤帯刀が規律を正したので、鈴木は身動きできなかった。後になって佐馬介は陣所に勘兵衛を呼んで詳しく秀頼の再興のための戦いに勝つための徳川勢の弱点をレクチャーした。

景憲(*小幡)は、もともとことがあると手柄を上げようとしていたので、これを聴いてスパイとして城内に入り、巧みな話術でいろいろな計略、謀議を聴き出してすべて徳川方へ流そうと考えたので、佐馬介の提案に乗った。そして彼は徳川から禄をもらっているといっても、もとは武田の家来で東西の戦闘がまた始まった時に「うまく立ち回って得をしてやろう、早速大野兄弟に会おう」と佐馬助の手引きに従って今日20日の夜中に極秘で大野兄弟に面会し、「必ず来年の春にリベンジするときには、この景憲を迎えてくれれば駆けつける。さっそくいろいろ作戦を考えておく」と述べて退席した。

〇堀正意の説では「大阪籠城の数十日の間に、城からは昼夜火砲が撃たれた。しかし、弾丸や火薬は切れなかった。概算すると火薬が800石、弾丸は3,4銭目などの小さな物は少しもなく、皆10銭目以上で数は夥しくて数え切れないだろう。仮に近辺を侵略して城へ運び込こんだとしても分量はわからない。その他糧米はいうまでもないが、野菜や油、醤油、縄なども皆備わっていた。とにかく、これほどの弾薬を貯め込んだ方法がわからない。ひょっとして関ヶ原の戦い以来、片岡且元が知恵を絞って密かに集めていたのだろうか? 

さて、どこでも誰かが滅ぼされると、後に何か大きな災いを残してしまうものである。大阪の仙波や中の島は諸国の船が付いて貿易をするところである。城の為に堰を作って河口を塞いだので商船は来れなくなった。ところが昔から波が高くて流れも速く船が着けなかった住吉や堺の海面は、穏やかになって、軍船や糧米の運搬船が自由に着けるようになった。

以前北条家が滅ぼうとしたとき、小田原の荒海の波が静かだったので、秀吉の水軍や糧米の運搬船が着岸できたという。今度和平が実現して大阪の川筋の堰が破られて、潮の満ち干が以前に戻ると船が仙波や中の島へ自由に着けるようになった反面、住吉や堺の港は波が高く潮も激しくなって船が簡単には着けなくなった。人々は非常に不思議に思ったという。

武徳編年集成 巻75 終(2017.6.12.)