巻76 慶長19年12月22日~29日

慶長19年(1614)

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22日 寄せ手は早朝から竹束や柵木を壊して始末した。

秀頼の使者の木村長門守重成と郡主馬首良列が茶磨山に来て、家康の起請文を受け取る時に、家康は小刀で指を突いて血を文書に移した。しかし、印の上に少しかかっただけで鮮明ではなかった。家康は「歳をとって血が足りなくなった」と述べた。

木村は聴いていないふりをして「淀殿が訝かるだろうから、もう一度血を垂らしてほしい」と頼んだ。家康はもう一度指を突いて血を移したときに、「あの時、信幾野と今福ではどれほどの城兵を出したのか」と尋ねた。重成は「3千ほどだった」と答えた。この値は小栗又一が当時見積もった通りだった。木村が帰ったのち、家康は木村の豪放さを感心した。

秀頼は、家康の血判を見届けるために本多正純に永井直勝を使いとして来させるように命じた。正純は「秀頼はすでに黄啄(*?)の木村を使いとしている、どうしてさらにこちらの老臣を送らなければならないのか」と述べた。家康はすぐ板倉内膳正重昌から秀頼の起請文に押した自分の血判を見させた。

大阪城の中では、修理亮などが重昌に「証文は家康に見せるべきか、秀忠に見せるべきか」と尋ねた。重昌は何も云われてこなかったので少し迷ったけれども、知らぬ顔をして「家康へ見せるように」と答えた。重昌は帰ってきて家康の前に出た。家康は「証文のあて名をいっていなかったがどうしたか?」と尋ねた。そこで重昌は上のような仔細を報告した。家康は「そうしてほしかった。お前でなければそのような機転はきかなかっただろう」と褒めた。

23日 諸軍の前線での柵などがすべて撤去され、兵は本陣へ戻された。松平下総守忠明、本多美濃守忠政、本多豊後守康重を奉行として、瀧川豊前守忠往、佐久間河内守政實、山城宮内少輔忠久、山本新五郎左衛門正成に城の4か所の門を守らせ、庶民の暴動を制止させた。城の城壁の破壊作業の監使の渡邊図書宗網、山田十太夫重利には徳川の人夫などを連れて、城方が今回新しく造った新郭から破壊するようにということで、南方は平野通りと8町目口の2筋の掘りを埋め、土手を崩してすぐに作業は終わった。

続いて越前、加賀、彦根の3隊や諸将たちは、我先にと人夫を出して雲霞のように石垣や材木、土嚢を掘りに投げ入れどんどん埋めたので、あれほどの深かった濠も全部埋められてしまう状況だった。秋元但馬守泰朝は駆けまわって、濠の真ん中に横幅2間余りの馬の蹄が泥に埋まらない程度の道を付けさせ、茶磨山に行って「外郭の城壁と濠はおおかた破壊した」と報告した。家康は非常に喜んだ。

〇この日、薩摩の大隅の軍船700隻ほど、又豊前、筑前、筑後の軍船3千隻余りが播磨の室津や摂津の兵庫の港に到着したことを、本多上野介が家康に報告した。すると、家康は「大阪城では和平が整ってわれらは凱旋したので、諸将はみな引き返すように」と命じたという。

20日(*?)秀忠は茶磨山へ行って家康と閑談したのち帰った。

今回の講和の挨拶のために織田有楽と大野修理亮は各諸侯を訪れ、時服を贈った。また、彼らから受け取った質子にも呉服を贈り面会した。藤堂高虎と本多正信が座って挨拶をした。有楽と修理亮が退席した後、諸州の大小名が秀忠に面会し、和平成立の祝意を表した。

家康は蜂須賀阿波守の家来が夜討ちされたときによく働いたので、稲田修理と同九郎兵衛に感謝状とそれぞれに刀を一本ずつ与えた。(修理には元重作、九郎兵衛には延壽作だったという)

穢多ヶ崎と博労ヶ淵で活躍した森甚五兵衛、博労ヶ淵にて槍で対戦した同甚太夫、夜討ちのときに槍で対戦した岩田七左衛門には、感謝状と時服を贈った。

穢多ヶ崎で手柄をあげた山田織部と樋口内匠助には感謝状が与えられた。また、蜂須賀の長臣の稲田宗心と林道感には、それぞれ黄金100両が与えられた。

松平宮内少輔忠雄の家来で、博労が淵で敵将の平子を討ち取った横川治太夫と同じ場所で番船を乗っ取った簑浦玄蕃に、それぞれ感謝状が贈られた。

〇長崎奉行の長谷川左兵衛藤廣が今年の夏から秋にかけて、肥前で邪教宗門の制裁を終え、先月家康に報告に来た。家康は苦労を褒めたうえで、「和泉の堺の港は長崎と行き来する商人が住んでいるので、ここも長崎とかねて政所を仕切るように」と命じた。

〇使い番で鷹匠頭を兼ねていた小栗忠左衛門久次が、今年家康の気分を害することがあったが、傳長老南光坊が懇願したことによって許された。

〇摂津の尼が崎の城主、建部三十郎は、秀頼の家来だったが、徳川方に付いて播州池田の助けを借りて城を守っていたが、まえからここに秀頼の倉庫があって年貢を蓄えていた。東西の和平ができたときからは松平主殿助忠利が、尼崎の援兵として城へ派遣されていた。城主の建部が、茶磨山や岡山を訪れ家康と秀忠に会って帰ってくるときに、薄田隼人が300人の兵を連れて神崎まで出て来て、「使者を尼崎へ送り年貢をすべて返すように」といってきた。主殿助忠利はこれを聞いて、使者を薄田の許へ行かせ「租税を奪いに神崎に来ていると聞いたが、今は松平主殿助がこの城を守っている。すぐに撤退せよ」と答えた。薄田は黙って大阪城へもどった。

〇同じ日、夜になって家康は、井伊掃部頭直孝を呼んで、「今度の戦では兄の陣代として彦根の兵を引率して先鋒として城攻めでもっともよく働いた。早く彦根に帰って兵馬を休ませるように」と命じた。そのとき本多上野守と土井大炊頭、安藤帯刀が同席していて、直孝の働きを褒めた。すると家康は「そのことを秀忠にも伝えるように」と命じた。

牧野内匠頭信成が、掃部頭の大番頭の後任を命じられ伏見に在勤した。

しばらく後に茶磨山の近臣の小屋が5,6棟で火事が起きた。松平右衛門太夫正綱、板倉内膳正重昌、加賀爪民部少輔直澄は厳重に陣営の門を固めた。秀忠は板倉周防守に火災の様子を見に行かせたが、どこも静かで動揺がなかったので、火元までは行かず旗本の許にも行かず帰ってきた。安藤治右衛門正次は「火元へ行かずに先隊を見て帰って来たのはなぜか」と尋ねた。彼は「旗本はさらに平穏だったが、先発隊の方は少しよくわからなかったので、馬で駆けて見て来た」と述べた。聞いたものは皆感心した。

〇家康は25日に朝に茶磨山を発つことになっていたが、今日24日の夜に急遽出発した。そして埋め戻した濠の中の道を経て、京橋まで行き、そこから河内路を進んだ。(*『当代記』と一致)

25日 家康は明け方には、森口に達したが、そのことは公になっていなかったので、大阪の人々は家康の凱旋を見物しようと、仙波筋や玉造あたりの小道をうろうろしていたが、結局見ることもなく帰って行った。敵方は家康を「予想不能の名将だ」と呼んだ。朝食は枚方で取って、二条城へは午後に到着した。所司代の板倉伊賀守が大手門の外で出迎えた。

〇ある話では、本多上野介は帰りのルートを急に変えたアイデアを感心した所、家康は「昔の武田信玄が城に籠っていたら、大阪城の傍は通らず大和越で京都へ帰っただろう。敵の様子によって変えるので、今回のことがあるといって、いたずらにそれにこだわってまねをしてはならん」と述べたという。

〇大阪城の城郭を壊している間、秀忠は岡山にとどまった。尾陽と遠州の両参議は元の陣にそのまま駐屯した。本多正純と成瀬正成、安藤直次は茶磨山に陣を張った。榊原遠江守、土井大炊頭、酒井雅楽頭の3組の士3千を残して、残りの東西の大小名、譜代の諸将は皆役割分担に応じて人を残して掘りを埋め、石壁を壊させ、来年の2日か3日には兵を連れて帰国するように家康は命じた。仙臺の政宗は来年春まで岡山を守り、秀忠が凱旋した後にそこを引き払うと、岡山に出向いて濃茶と難波の梅の花一枝と酒樽を献上した。秀忠は喜んで吸い物を供し盃を与えた。

大阪城からは織田有楽、大野修理亮と7組の頭が岡山へ来て、秀忠に面会した。

26日 金地院傳長老羅山の子道春が二条城へ来た。家康に写本を依頼されていた『本朝舊書』いわゆる『舊事本記』、『古事記』、『続日本紀』、『三代實録』、『文徳實録』、『江家次第』、『明月記』、『続本朝文粹』、『西宮記』、『釋日本記』、『内裏式』、『山瑰記』、『類聚三代格』などを献上した。

〇紀州北山新宮の川筋の土地の士が、和泉の一揆と示し合わせて内乱を起こそうとしたので、浅野但馬守長晟を紀州へ帰した。そして彼の家来の浅野右近は、熊野の那智の別当執行實報院とその衆徒の長に手紙を送った。

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〇高敦が想像するに、この時實報院は、那智の別当執行道助法印の嗣子で、堀内安房守氏善の5男である。兄は大阪方であったが、彼は徳川についていた。その理由は、實方の中将の孫の泰救法師が初めて那智の山の別当を補佐し、判官為義の娘を妻として代々源家が熊野参詣の宿だったので、後に家康が實報院の祭礼を取り仕切ったためである。(『堀内宇右衛門家伝』にある)

27日 大阪の総濠を埋め戻すことを約束した時、家康はそこだけでなく二の丸や三の丸の掘りまで壊してしまった。

大野修理亮は驚愕して怒り、本多上野介や成瀬隼人正、安藤帯刀に会って「約束したのは総濠の破壊だけだった。本丸の外は二の丸、三の丸まで壊すとは聞いていない」というと、成瀬は「和議の約束と何も違っていない。総掘といえば内外の掘りをいうので、どうして内側の掘りを残すのか? もう和平をしたし、幕府と秀頼は親戚である。平和なときに大阪城の内堀を残したいというのは怪し、いといわざるを得ない。客将や浪人どもの考えか」といった。修理亮は黙ってしまった。

その結果、すべての濠が埋め戻されたところで、土井大炊頭は京都へ来て家康に報告した。家康は東西の諸侯に3年間の幕府の仕事を免除させると命じたという。また、板倉加賀守を呼んで、明日参内するが天酌(天皇から盃をうけること)を止めるように、両傳奏に連絡するように命じた。板倉はすぐこれを両氏へ連絡するために面会してから戻り、家康の肩輿は、長橋の局の前に来ること、但し長い柄の輿は認めないことを告げた。

28日 朝、家康は参内した。いでたちは大紋の綿入れ、桔梗模様の差貫(*袴のようなもの)に儀式用の太刀と桑の笏(*しゃく、神主のもっている細長い板)だったという。(*『当代記』と日時が一致)

家康は、長橋で鷹司摂政政信尚に面会し、御所の儀式は『舊記』によって判断し、あとから指示があるといわれた。御所には白銀千両(4貫3文目である)、綿300束、仙洞御所に白銀250両、綿を100束、女御へ白銀250両、綿100束を贈った。

夜には仙洞の阿野弾正大弼實顕は、家康が国を美徳で統一したことを文章にする時に、所司代の板倉が同席して「来年の春に年号を改めた方がよい」と提案した。家康は「昔の勘文(*調査報告書)があるが、漢の時代の良い時代の年号を使うのがよいのでは」といったという。

〇池田武蔵守利隆に白銀5千枚を与えた。有馬左衛門差康純には1万3千石を加えた。酒井讃岐守忠勝には下総の外に3千石を与えた。小笠原兵部少輔秀政の庶子の久松が従5位下壱岐守になった。秀忠が諱を与えて忠知となった。

〇この日関東で前の駿河の国主の今川上総介源氏眞が享年77歳で死去した。(この時は入道となって宗誾と号していた)

29日 廣橋と西三条の両氏は、目録7箇条を以て家康に会った。7条項は正月、節会、白馬蹈歌の事、准后親王、位階、諸家、官任などである。家康は朝廷のありかたは昔と今では違うので、駿河へ帰ってから律令格式をよく考えて意見を伺いたいと返事した。

陸奥守政宗の長男、遠江守秀宗は5歳から秀頼に仕え大阪にいたが、関ヶ原の後父の政宗が秀宗を棄てて二男の虎菊丸を嫡子とした。秀宗は今回政宗と一緒に出陣したが、そのことを家康が耳にして、伊予の宇和島1万3千石を秀宗に与え、新たに一家を起こさせた。

家康は伊丹喜之助康勝(後の播磨守)を呼んで、軍勢や糧米について相談した。

片桐市正が家康に会いに来て、駿河へ行きたいと申し出た。家康はそれを認めて領地1万5千石を増やした。(全部で4万5千石となった)、同じく主膳正には5千石を増額した。

〇今月 内藤左馬介政長の嫡子帯刀忠興個人に1万石を与えた。それはこの秋から左馬介政長は里見忠義の関所の地、房州館山を守っていて、帯刀が何度も大阪の戦いに参加したいと申し出たので、政長は止められず騎士20人、歩卒100人ほどを帯刀につけて出かけさせた。忠興は伏見で本多佐渡守のところを訪れて志願を申し出たが認められなかった。忠興が何度も頼んだのでようやく家康の耳に入った。家康は若い勢いで国に仕えようとしているのに同情して、甥の松平丹波守康長が今度酒井左衛門の組に参加しているので、康長とともに酒井の部下にした。そこで今度恩恵を受けることになったそうである。

安藤治右衛門正次が、信幾野で活躍したので500石を与えられた。

〇今年いっぱい、大番頭の加藤源四郎正勝に鉄砲箪笥徒同心25人が預けられた。

〇鈴木兵左衛門は本国の三河の加茂郡の200石をもらい大番士となった。

〇室町幕府の家来、蜷川新右衛門親長入道道標の子、次郎右衛門親満が御家人となって大阪の戦いに従軍した。

〇廣戸半左衛門正重が初めて家康と秀忠に会えた。

〇神保安芸守氏春と西山十右衛門正俊(75歳)が亡くなった。

武徳編年集成 巻76 終(2017.6.12.)