巻77 元和元年正月~3月11日

元和元年(1615)(*『当代記』は慶長20年とある)

正月大第77.jpg

朔日 京都にいた諸士は二条城を訪れ、家康に新年の挨拶をした。秀忠は、大阪の岡山の陣で新年を迎えた。在陣の大小名が挨拶に来た。

守りを強化するために、本多美濃守忠政と松平下総守忠明は岡山の東に陣を移した。(*『当代記』は2日)

3日 家康は駿河へ帰るために、京都を発ち、午後には膳所の戸田左門一西の居城へ着いた。

〇この日、対馬の国主、宗侍従義智が死去した。(後日その子の彦七郎義成が家督を継いだ)

4日 家康は矢橋で琵琶湖を渡った。松平右衛門太夫正綱など近臣5,6人と、片山興庵法印宗俊、後藤庄三郎が随行して、夕方、水口の旅館へ着いた。貢税の使いの長野内臓助が接待に奔走した。

5日 亀山の城へ着いた。

6日 鈴鹿の峠を越えて、桑名の城に着いた。(鈴鹿山中の警護は、日向半兵衛政成と島田清左衛門直時の鉄砲隊がそれぞれ100人で担った)

7日 桑名から船で名護屋の城へ入った。国主の参議義直が大阪に出て留守なので、家来の淵田民部と原田右衛門が奔走した。(翌日もここに滞在した)

9日 岡崎の城へ着いた。(城主は本多豊後守康重)ここで大阪の形勢を見るために、放鷹と称して数日間滞在した。

10日 秀忠の使いの永井信濃守尚政が岡崎に来て、「大阪城の本城の外は二の丸、三の丸の曲輪まで全て破壊され、二の丸の掘の巾50間から45,6間は、水深が3、4間から浅いところで2間あったが、大勢で櫓、多門、家屋までも破壊し、石崖も崩して埋めているが、まだ完了していない。もっと人を増やして作業が終われば、秀忠は15,6日には、大嵩から凱旋できそうだ」と報告した。(*『当代記』では安藤治右衛門と佐久間河内が、報告に岡崎に来たことになっている)

11日 秀忠は、岡山の陣へ蜂須賀阿波守至鎮を呼んで、昨年の冬の陣の功績を褒めて、松平の称号と順慶左文字の刀、感謝状を贈った。

山田織部と堀口内蔵介が感謝状をもらった。森甚五兵衛、同甚太夫、岩田七左衛門は、感謝状と時服をもらった。

松平宮内少輔忠雄の家来、横川治太郎と簑浦玄蕃も感謝状をもらった。

〇菅沼家の話として、織部正定芳は、本多美濃守の組として伏見まで帰る時、秀忠は黄金20枚を与えたという。

〇この日、松平虎之助が元服し、秀忠に諱をもらい従5位下侍従、伊勢守となった。

12日 秀忠の使いの佐久間河内守政實と安藤治右衛門正次が岡崎に来て、大阪の二の丸の掘はまだ三分の一も埋めていないので、千貫櫓と、織田有楽と大野修理の家も破壊し、高い地を削って昼夜兼行で残りの作業をする、と報告した。家康は治右衛門に、この冬の信幾野でのすべての功労者の名を尋ねた。

13日 最上家親の使いの坂上紀伊守が家康を訪れ、駿馬と白鳥などを献上した。家康は彼を呼んで、駿河守が本当によくしてくれるので、江戸城の留守を命じた。そこで彼は江戸へ帰った。彼の江戸の屋敷は大手門の外だったが、いつも本城へ詰めていて、家に帰らなかったという。

15日 坂上紀伊守に暇を与え手紙を送った。(*宛名は最上駿河守なので、家康は後任を命じたのだろう)

元和1年1月15日家康ー最上駿河守.jpg(*『当代記』夜から大雪で17日まで続く近江と美濃は4尺ほど積もる)

17日 秀忠は、上杉景勝の家来の杉原常陸介親憲、須田大炊頭長義、鍼孫左衛門を呼び、先の信幾野での軍功を褒め感謝状を贈った。また佐竹義宣の家来の梅津半右衛門、戸村十太夫、信太内蔵助、大塚九郎兵衛、黒澤甚兵衛の軍功も褒めて感謝状を贈った。

〇この日、伏見城を守っている大番の渡邊山城守茂の組の、平岩金左衛門正當が享年51歳で死去した。この人は主計頭親吉の甥である。

18日 秀忠の使い番の青山善四郎重長が岡崎に来て、尾張、遠江の両参議は一昨日16日に大阪から京都へ兵を戻した。また、秀忠は、19日に大阪から伏見の城へ凱旋する予定である。ただ、大阪城の二の丸と三の丸の曲輪はおおかた破壊できたが、まだ完全ではないので、本多上野介と安藤対馬守を監使として、本多美濃守と松平下総守が岡山に残り、松平安房守忠吉が、今宮の砦を払って伏見の護衛に加わることを家康に報告した。

(*『当代記』では19日に家康は吉良で放鷹をして、鶴や雁を多数獲ったとある。続いてこの冬は近年まれにみる寒さだとあり、この記事を最後に『当代記」は終わっている。なお、『史籍雑纂. 第2』には慶長16年8月1日~慶長20年12月29日までの日記である『駿府記』が掲載されているので、以下は是も参照する。なお『駿府記』は後藤庄三郎光次(1571-1625)とか林羅山(1583-1657)らしいが、詳しくはわからいという)

22日 家康は岡崎の近郊で毎日放鷹をした。京都から秀頼の使者の吉田玄蕃允が岡崎に来て、寝具と枕を献上した。また大野修理亮からは、羽二重20匹、また玄蕃允自身も、鷹のリード10本を献上したという。家康は秀頼へ自分の鷹が獲った鶴を贈った。

24日 安藤帯刀は大阪から戻ってきて、大阪の城の破壊の件と、秀頼方が再び兵を挙げようとしていることを報告した。

〇この日、秀忠は、伏見から京都へ行き二条城に滞在した。

27日 家康は岡崎から吉田の城に着いた。

〇この日、秀忠は参内して、天皇へ貢物した。

松平伊予守忠昌は、従4位下に、その他11人が従5位下に叙された。そのメンバーは山内左助忠豊(豊前守)、松平新六郎忠国(山城守)、同與七郎忠晴(伊豆守)、松平源次郎乗壽(和泉守)、酒井萬千代忠行(河内守)、酒井與七郎忠利(備後守)、秋田東太郎信季(伊豆守)、井上半九郎正就(主計頭)、太田新六郎資宗(備後守)、小山左源太(長門守)、蔭山新十郎(因幡守)などだったという。

29日 家康は濱松城に着いた。(*『駿府記』と一致)

〇晦日の午後早々に中泉の宿に着いた。租税の役人の大石十右衛門が奔走した。

秀忠の使いの内藤右衛門正重が来て、29日に京都を発って膳所の城へ泊る予定であり、大阪城の城郭や堀などの破壊作業と岡山の陣を守っていた大小名は24、5日中に、全て帰国した旨を報告した。そして大阪城の浪客は、今も誰も解散せず、また兵を上げようと相談していると述べた。そこで家康は放鷹という名目でしばらくここに滞在し、大阪からの報告を待った。

〇大番頭の井伊直孝の後任を命じられた、牧野内匠頭信成はその組の番士を連れて大阪城へ出陣するように、老臣が密書を送ったという。

2月小

3日 秀忠は名護屋城へ着いた。参議中将義直は一足早く帰っていたので、盛大に饗応した。そして長光の太刀と、同作の刀、国光の脇差を献じた。お返しに秀忠は腰物(長光)と脇差(則国作)を与えた。

本多上野介正純は、遠州中泉の宿舎に家康を訪ね、大阪の二の丸、三の丸と櫓や堀多門を破壊し堀を埋めて、本丸の桜の門まで誰でも行けるようになったと報告した。家康は正純を寝室へ呼んで閑談したという。

4日 遠江参議中将頼宣は秀忠より一日早く中泉に着いたが、「すぐに駿府へ行って秀忠を待ち受けて饗応する準備を、名古屋で義直が奔走したようにせよ」と詳しく家康が指示したので、頼宣はすぐに駿河へ向かった。(*以下の記事は相当『駿府記』と一致している部分が多い)

〇この日肥後の監使として阿部四郎五郎正之と朝比奈源六正重が伏見を発った。

5日 秀忠の使いの井上主計頭正就が中泉に到着した。秀忠も昨日の夕方岡崎に到着した。明後日7日に中泉に就く予定だと連絡した。そこで新たに宿の準備をするように家康は命じた。

7日 午前、秀忠が中泉に到着した。まず珍しい食材の食事が振る舞われたのち、しばらく休んでから家康に面会して鷹を献じた。

本多佐渡守父子と土井大炊頭が同席した。秀忠の近臣70名ほどが1人ずつ家康に会った。松平伊予守忠昌には鷹が贈られた。正午に秀忠は中泉を発って掛川の城へ入った。

8日 秀忠は田中の城に着いた。

京尹の板倉加賀守勝重の手紙が中泉に着いて、池田輝政の後室の良照院が先月8日、備前から京都へ来て疱瘡に罹り、今月4日に死去したことが伝えられた。彼女は家康の娘で、最初は北条氏直の正室であった。家康は非常に悲しがった。

9日 秀忠は午前中に駿河の城へはよらず、清水の宿に入った。遠江参議頼宣がねんごろに饗応したので非常に喜んだ。

10日 家康は中泉を発って相良に着いた。随行は放鷹の時のメンバーと同じだった。その他の随行者は昨日中泉から一足先に駿河へ帰された。

11日 雨が激しくて相良に滞在した。

12日 田中に到着した。彦坂九兵衛光正が接待に奔走した。翌日も滞在した。(光正は駿府の町の司で近郊の租税の係であった)

14日 家康は駿河の本城へ、秀忠は江戸本城へ凱旋した。人々は万歳で祝した。

〇この日、奥平美作守信昌が享年61歳で死去した。この人は三河の長篠籠城で非常に活躍した武将である。また、家康の婿である。去年の冬に嫡男の奥平大膳亮家昌、次男の松平摂津守忠政が続いて亡くなったので、年老いた信昌は悲嘆に耐えられず、ついに死亡したという。

16日 今夜から近臣の夜中の番が免除となった。

18日 輝政の後家が亡くなったので、家康は秋元但馬守泰朝に香典を届けさせた。

〇この日、慶長15年以来御家人となった稲田助之進が死去した。嗣子がなく家が断絶した。彼は最初織田七兵衛信澄に仕え、後に堀左衛門秀政に仕えたが、堀家が滅びてからは家康に拾われた人である。

24日 家康の家来の浪人小幡勘兵衛景憲は、昨年暮れから大野主馬治房に招かれた。彼は偽りながらその招きに応じた。彼はかねて京尹の板倉と伏見の松平隠岐守と密かに相談して、大阪へ行った。これは彼がスパイだったからだという。

25日 終日小幡景憲は、大阪城の蓄えや人員また諸奉公人の様子、大狼煙などについて詳しく見届けたという。

26日 越後少将忠輝が駿河城へ来て、昨日駿河に着いた挨拶を家康にした。

織田有楽の使いの村田吉蔵が家康に会いに来た。有楽父子は大阪城を離れて京都に住むことを望んだ。家康はそれを許可した。

〇『小幡家記』によれば、勘兵衛は早朝大野主馬の許へ来て、治房と布施左馬助、新宮若狭、岡部大学と忍びの吉川権右衛門、日蓮宗から転向した随雲院に会った。主馬は「忍びの達人を駿河へ行かせて、城の寝室の床下へ忍び入って家康を刺すように」といった。景憲は「それはやってはいかん。婦女のいるところは、庭からあがりやすく造られているので床が非常に低い」といった。主馬はこれを信用した。翌日景憲はまだ城にいたが、城中の武将たちは挨拶をしがてら彼の様子を偵察した。

28日 備前から急ぎの使いが来て、22日当主の従4位下行侍従兼左衛門督朝臣忠継が17歳で頓死したと伝えた。この人は池田輝政の三男で、家康の外孫である。家康はすぐに兄の池田武蔵守と舅の森美作守へ森作兵衛を使いとして送り、備前の国務を当面両氏に相談して執行するように命じた。

〇この日、家康は井伊掃部頭直孝を選んで、「兄の右近太夫直勝に病気があって、先鋒の役が務められないので、お前がすぐになくなった父の兵部大輔直政の後を継いで、彦根の城18万石のうちの15万石を預かり、軍務に就くようにと厳命した。直孝は何度も断ったが許してもらえなかった。また、右近太夫には3万石を与えて、病気の療養のために閑居するように命じた。

〇近江の長濱の城主内藤豊前守信政(信廣の子)は、摂津の尼が崎に行き、松平主殿頭忠利に代わって城を守った。

三宅越後守康信と同大膳亮康盛、仁賀保兵庫助誉誠は、山城の淀に行きその城を護るように命じられた。

〇『小幡家記』によれば、今日の昼、勘兵衛は大阪城を出て伏見へ来て、前に大野が送った委託の手紙と秀頼からもらった大判の金を証拠として、松平隠岐守へ詳細を報告した。この内容は勝重から駿府へ報告された。

3月大 

3日 江戸の使い土井大炊頭が駿河へ来た。(*『駿府記』では2日、なお、13日までは記事なし)

5日 筒井伊賀侍従定次(54歳)とその子の宮内少輔順定(15歳)が配所で殺された。これは去年の冬以来、大阪方に付いていたからである。

6日 京尹の板倉勝重は、伏見の城代の松平定勝が兵を集めて到着したことを示し、徳川方が警護を緩めていないことを大阪方へ示そうとした。

11日 小幡勘兵衛景憲は伏見からもう一度大阪へ赴いた。これはこの7日に本多上野介の手紙を京尹の勝重屁見せて、前と同様にスパイとして大阪へ行くように指示されたからである。

〇『小幡家記』によれば、景憲は金で若衆や奴隷50人を雇って大阪へ行こうとしたとき、松平讃岐守の家来の酒井三右衛門と板倉の家来の金子内記は、密かに「秀頼が再び兵を挙げることがわかれば家康と秀忠は出兵する予定だ。しかし、関東からの大軍を移動させるには時間がかかるので、敵が京都へ攻めて来て勢多(*瀬田)の橋を焼き落とす危険がある。したがって敵の出陣を景憲の知恵と弁舌で50日ほど延期させるように」と述べた。

景憲は了解して「それなら淀の渡りに木戸を設けて、番兵を置き、更に石山寺の前とか宇治の辺りの鹿飛の狭い道をきちんと調べておくように。というのは大阪から膳所や大津へその道を経て進軍するらしいという情報があり、次に勢多の橋の西から東に行くと、大和から通じている道があるので、ここも詳しく調べておくように。その訳は先と同じだ。なお、家康と秀忠が京都へ入る経路には、旅館の井戸には蓋をして兵を配置するように。これは大阪方が密かに毒薬を井戸へ入れようとしているからである。

また、今月6日の夜のように、2,3日おきに伏見と京都で警戒をしているという様子を示した。これは近日中に家康軍が京都へ来るということを敵に示す作戦である。

敵は表向きには徳川を馬鹿にしているが、内心秀吉が長久手で大敗したことに懲りて、家康が出てくるとなると元気が失せるので、こちらの計略にはまってむやみに伏見や京都に攻めてくることはないだろう。自分は大阪から情報を送るが、途中で奪われる危険もあるから、実際の敵の出方を自分の目で確認してほしい」と作戦をいい残して伏見を出発した。

11日 小幡が大阪へ到着した。

〇『小幡家記』によれば、大野主馬は、平野町の焼け残りの商家を修理させて景憲を住まわせ、配下の水軍の長の橋本彌右衛門に毎日の食事を配達させた。また来月からは毎月扶助米30石を与えたという。

今夕主馬は彼の陣営で景憲と作戦を協議した。また、13日の夜にも治房の家で新宮若狭行朝、布施佐馬助、岡部大学則網、武藤丹波、随雲院、吉川権右衛門などが出席して、主馬と景憲らと作戦を協議した。新宮は「速やかに京都を攻めて占領すべきだ。家康が奥州や出羽の軍勢が来なければなかなか出兵し難いだろう」といえば、一同はもっともだと同意見だった。

景憲は「天正12年の夏、家康は長久手で大勝利したので、秀吉はその夏に瀧川一益を蟹江の城へ加えた。しかし、東海道の諸将の勢力が大きくなっていたので、徳川は迅速に出馬してくるはずはないと考えた。ところが実際は大いに違っていて、家康は瀧川陣営のことの知らせを聴くと、早速井伊直政とただ2,3騎で蟹江へ駆けつけ、瀧川勢が蟹江へ半分ほど入ったころに、その間をすり抜け、瀧川の後続が変だと相談している間に徳川の旗本が1-2町後から駆けつけ、瀧川勢を追い散らせて、すぐに城を落としてしまった。

これは家康が長久手の勝利を無にしないために、大急ぎで兵を出したのだ。まして関ヶ原以来、天下を手に入れて、今はもう16年になる。この勢いを絶やすことなど考えるはずはない。いつもより早く出兵するはずである」といった。

新宮は「奥州の大名が出兵するには、準備に10日、江戸に来るまでに15日、江戸で軍を整えるのにまた10日はかかる。その間に大阪から京都を包囲し、瀬田の橋を焼き落として遮断し、彼らがそこを突破することに時を費やすうちに、大小名がこちらへ付いて戦いに勝算がある」と述べた。

景憲は困ったが「しかし、今回は家康の譜代だけがすぐに出馬して、奥州の諸将については、上方で藤堂高虎が味方に付いたので、連れて来ないだろう。また秀忠の出馬もないだろう。家康は5万の多勢も100人が裏切れば大変だと分っているので、信用のおける譜代だけで来るだろう」とのべた。

新宮は「関東の譜代は1万もいないだろう。奥州や北国、藤堂がなくては戦にならないだろう」といった。

小幡は「譜代の持ち分は、近江、美濃、伊勢、尾張、越前、越後、佐渡、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、関八州、あわせて21か国に及ぶ、各8千出すと16万となる、その内4分の1を国に残しても10万になる。その内5万は関東での裏切り者に備えるので、家康は5万で攻めて来て、勢田の橋が落とされれば、家康はもともとあの辺りには地の利に詳しいので、坂本に陣を敷いて戦いをするだろう。その時大阪勢はどこに駐屯するつもりか?」

新宮は「志賀の辛崎に駐屯して、土居や柵を築いて、大津の米を糧米とする」と答えた。

景憲は「そうだとして、敵は比叡山の後ろの山中越から京都へ攻め込み、加賀と藤堂が駆けつけて参戦するとどうするのか」

新宮は「坂を上る途中で後ろから攻める」といった。

景憲は笑って「戦の成功体験が薄いのは気の毒だな。坂本の狭い場所に5万の兵の陣を立てると思うか?

当然比叡山の山腹や山王八王子、山中越のあちこちに分散して陣を張り、大半は京都へ行って休養すれば、10日もすれば必ず勝ってしまうだろう。そうして、あとから全軍が京都へ入った時に、家康はすこしずつ山中へ大阪方を引き入れ、山の上や横から攻め込んでくれば、味方は上に登りながら戦わなくてはならないので、まもなく息絶えて、ちょうど北条勢が武田信玄のために三増峠で敗北したようになるだろう。

家康の戦法は一見違うように見えるが、結局は信玄の戦法と自然に同じになっている。リベンジの戦いに臨むときは勝利のための備えが肝要である。その備えとは、弱兵を排除して精兵を抱えるようにするのに越したことはない。籠城では、女子供、奴隷にも堀や橋の陰から鉄砲を撃たせると敵は恐れる。平地では備えの濃淡や兵の数がものをいうので、ヘタレの兵や緩んだ奴、名前を偽って去年から籠城している者を追い出し、強い武将を集めるのが第一だ」

岡部大学は「今までの話は、京都の所司代の板倉を攻め落とすことばかりをいっているが、伏見の城の方はどうするのか?」といった。

主馬は「今、伏見は大阪から許しが出るとそのまま出兵して、徳川を圧倒する大名がいる。だから伏見は城があってもないようなものだ。それでも出てくる敵はいない」と述べた。

景憲は「この2月以来、伏見の兵は一切出兵してはならないという江戸からの命令がある。しかし、伏見には井伊掃部が援軍の将だという話がある。

彼の父は天下無双だった秀吉にも赤鬼と呼ばれ、24歳の時から卓越した武将である。二男の掃部頭は今年26歳だけれど、父と同様強い。父は強いばかりだったが、この掃部頭は変化自在の武功があり、相当のつわものである。13歳で父と死に別れ江戸に勤務して、組の中でも卓越した存在で、兄の右京大夫は病弱で任に堪えられず、冬の陣では兄に代わって佐和山勢を率いて指揮を執った。彼の部下は、信玄の家来だった山縣、一條、原、土屋の4つの組と関東の浪人から選ばれた優れ者ばかりで、父の兵部少輔に付いていた孕石備前脇五右衛門、三浦輿右衛門、庵原助右衛門、海老江庄右衛門、三浦重右衛門、長坂十左衛門、長野民部、早川彌惣左衛門、中老軍配には岡本半助が今もいる。このように百戦錬磨の兵は、上杉と島津の外には居ないだろう。

去年大阪城が攻められたとき、庵原の金の切割、神験備手置きの呈が定まった(*?)のは城内からも見えただろう。彼らは信玄と勝頼の時代から徳川に来て、何十回も数知れぬ戦いで勝負に出て生き残った者どもである。去年11月以来、掃部頭の腕は父以上になった」といろいろ弁舌した。

「また極秘に京都の郊外の醍醐山の他、色々な郷に5,6人ずつ葛の籠に鎧を隠し、指し物を隠し持って隠れていて、主人が交代した機会に一旗揚げようとしている。

もし誰かが伏見を攻めに来たと聞けば、即刻出て来て、大手治部少輔曲輪の武者だまりに集まって3千人あまりになるはずである。これはほかの3万にも匹敵する。

そして昼間には斥候を出して、足軽を配して大阪方の兵糧の運搬を遮り、夜がけ朝込を仕掛け、乱暴や焼き討ちがありそうだと思えば、スパイや斥候を配して戦闘を尽くして撃退し、大敵が来れば偽の兵を出して敵を誘き出し、残りの敵を後ろから襲い、敵が撤退すれば、地の利を見て古屋敷や濠のあるところに隠れて、昼も夜もこちらを悩ますうちに、佐和山から本隊が到着するだろう。

せっかく伏見を攻める許可を秀頼からもらったのなら、少し出兵を延期して、主馬の2万の備えを整え、作戦を考えてから諸将に連絡した方がよい。そもそも味方として間違いないものをよく見てみるに、55歳の者でも今川義元が殺された戦いの話を尋ねても、彼らは義元の死んだ翌年に生まれた連中なので、その知識もいい加減である。

そのような腰抜けどもや、鉄砲の撃てない足軽は放逐して、もっと優秀な人材を集めてから京都や伏見を攻めるのが良い」と大阪方が多数の軽率を放逐させる様に仕向けるように、雄弁に語り、大阪方を謀って軽率を実際に放逐させた。

そうして「大阪で軽率を多数放逐したら、彼らが近日中に京都を攻めないと思え」ということは、定勝や勝重とあらかじめ撃ち合わせた合図だったので、景憲はなんとかこの話を決めたい、と望んだ。

武徳編年集成 巻77  終(2017.6.13.)